第50章 平成18年 高速バスの足跡を継いだ特急電車~国鉄と東武鉄道と高速バスの日光輸送史~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス「足利わたらせ」号、特急「日光」】

 

 

平成18年の秋の週末、僕は東京駅を14時に発った足利行きの高速バス「足利わたらせ」号に乗っていた。

 

この路線は平成17年10月に開業したばかりで、宝町ランプから首都高速都心環状線に入り、江戸橋JCTと箱崎JCTでの渋滞を切り抜けて、首都高速6号向島線の堀切JCTで中央環状線、江北JCTで川口線へと渡り歩いてから、東北自動車道に入る。

隅田川を遡る向島線の高架からは、対岸に浅草の街並みがちらりと見える箇所があり、子供の頃に東武浅草駅から特急電車に乗った日光旅行を思い出して、懐かしい気分になる(「平成7年 高速バス新宿-日光線と新宿-鬼怒川温泉線で蘇る東武特急『けごん』の思い出」 )。

 

佐野藤岡ICで東北道を降り、佐野プレミアムアウトレットに寄ってから、国道50号線を西進して足利の街に至る、所要2時間の道中であった。

 

 

東北道から国道50号線に入っていく道のりには、悔しい思い出がある。

免許を取得してバイクに乗り始めたばかりの平成7年の真夏のこと、東北道から国道50号線で足利の先の桐生まで行き、国道122号線で渡良瀬川の渓流を眺めながら、足尾を経て日光へ抜けるツーリングを試みたことがあった。

 

国道50号線は敷地に余裕があって決して悪い道ではなかったけれども、どうして車線を増やさないのかと焦れったくなるほど、ぎっしりと列を成した車が、ベルトコンベアで運ばれているかのようにノロノロと動いていた。

まだバイクの中型免許を取ったばかりで、すり抜けをする技術も度胸もなく、4輪車と一緒に亀のように進むしかなかった。

工場や住宅地が点在する北関東の田園風景も面白みに欠け、激しい渋滞と照りつける強い陽射しに辟易して、ついに途中で引き返してしまったのである。

 

「足利わたらせ」号に乗って10年ぶりに国道50号線を走れば、渋滞は相変わらずで、あの時引き返したのは足利市内の手前の渡良瀬川あたりだったのか、などと、挫折したツーリングの記憶がほろ苦い車窓風景であった。

この渋滞が「足利わたらせ」号の足枷になり、平成19年に佐野と足利の間の運転を取り止めて、東京と佐野を結ぶ「マロニエ東京」号に変じてしまうのは、後の話である。

 

 

渡良瀬橋で見る夕日を

貴方はとても好きだったわ

綺麗なとこで育ったね

ここに住みたいと言った


電車に揺られ この街まで

貴方は会いに来てくれたわ

私は今もあの頃を

忘れられず生きてます


今でも八雲神社へお参りすると

貴方のこと祈るわ

願い事1つ叶うなら

あの頃に戻りたい

 

床屋の角にポツンとある

公衆電話おぼえてますか

きのう思わずかけたくて

なんども受話器とったの


この間 渡良瀬川の河原に降りて

ずっと流れ見てたわ

北風がとても冷たくて

風邪をひいちゃいました

 

誰のせいでもない 貴方がこの街で

暮らせないこと分かってたの

何度も悩んだわ だけど私ここを

離れて暮らすこと出来ない

 

貴方が好きだと言ったこの街並みが

今日も暮れてゆきます

広い空と遠くの山々 2人で歩いた街

夕日がきれいな街

 

 

不意に、森高千里の「渡良瀬橋」が脳裏に浮かんだ。

切なさが心に浸みるこの歌の舞台は足利市で、国道50号線から分岐する国道407号線を真っ直ぐ北に進めば、渡良瀬橋に行き着く。

 

何処でどのように2人は出逢い、男も女も、どうして渡良瀬川が流れる美しい街で暮らすことが出来ず、出て行くことも出来ない、と決め込んでしまったのか。

窓外を過ぎ去る街並みにぼんやりと視線を向けながら、ふと、そのようなことを考えた。

 

 

JR両毛線の足利駅でバスを降りると、叩きつけるような冷たい空っ風が、容赦なく襲いかかってきた。

「渡良瀬橋」の女性が風邪をひいたのは、この風か、と思う。

渡良瀬川に沈む夕陽を見てみたい、と思うけれども、この日は、東京からずっと高曇りの天気だった。

これからどのような方法で東京に帰ろうか、と思案しているうちに、両毛線の5駅先にある栃木駅を17時19分に発車する、新宿行き特急「日光」をつかまえる案が思い浮かんだ。

 

平成18年に、新宿駅と東武日光駅を結ぶ特急「日光」と、新宿駅と鬼怒川温泉駅の間に特急「きぬがわ」が運転を開始したのを知った時は、驚愕した。

前者は往年の国鉄列車の愛称の復活で、池袋・浦和・大宮・栃木・新鹿沼・下今市に停車する。

特筆すべきなのは、上記の停車駅のうち、新宿から大宮まではJR東日本の線区で、JR東北本線と東武伊勢崎線が接続する栗橋駅に設けられた連絡線を渡り、栃木から東武日光の間は東武鉄道の線路を利用する。

 

全国どこでも見られるJRと私鉄の乗り入れ運転じゃないか、と思われるかも知れないが、JRの前身である国鉄と東武鉄道は、かつて東京と日光の間の輸送においてしのぎを削ったライバル同士であったから、当時は何かと話題になったものだった。

 

 

明治23年に国鉄日光線が開通した時には、上野と日光の間に、東北本線から乗り入れる1等車連結の定期列車が1日5~6往復運行されていたという。

日光という土地が、我が国の鉄道の黎明期にも無視できない観光地であったことは、明治33年に作詞・作曲された「鉄道唱歌」が、東北本線を歌う部分の途中で、日光線に寄り道している歌詞からも容易に想像できる。

 

いざ乗り替えん日光の 線路これより分かれたり 25マイル走りなば 1時半にて着くという

日光見ずは結構と いうなといいし諺も おもいしらるる宮の様 花か紅葉か金襴か

東照宮の壮麗も 三大廟の高大も みるまに1日 日ぐらしの 陽明門は是かとよ

滝は華厳の音たかく 百雷谷に吼え叫ぶ 裏見霧降とりどりに 雲よりおつる物すごさ

 

昭和4年に東武鉄道日光線が開業してから、両者は競合関係となり、熾烈な誘客合戦を展開していく。

国鉄は、昭和31年に上野と日光の間でキハ44800形気動車による準急「日光」の運転を開始して、所要時間を約2時間に短縮した。

昭和34年には日光線全線を電化した上で、準急「日光」に特急並みの設備を持つ「日光型」157系電車を投入して、東京-日光間の所要時間は2時間を切り、新宿と日光を結ぶ準急「中禅寺」も運行された。

 

 

ところが、国鉄の上野-日光間146.6kmという距離は、東武線の浅草-東武日光間より長い。

直通運転の場合は宇都宮駅で列車の進行方向が変わる線形も災いして、昭和35年に東武鉄道が1720系車両を投入した「けごん」の運行を開始すると、同時期に相次いだ国鉄の運賃値上げによる客離れと相まって、昭和43年に「中禅寺」が、そして昭和57年に「日光」が廃止されてしまう。


以後、国鉄・JRともに、日光への本格的な観光輸送に手を出そうとはしなかったのである。

 

 

JR東日本が、自前の日光線ではなく、東武線を経由する特急列車を運行することになった理由は、自社の歴史で果たせなかった日光・鬼怒川温泉への観光客の本格的な取り込みに触手を伸ばしたものとされている。

新宿駅と東武日光駅の間は134.9km、東武鉄道の浅草-東武日光間とほぼ同じ距離で、「日光」の所要は2時間を切っている。

 

一方の東武鉄道は、国鉄時代に新宿駅に乗り入れていた準急「中禅寺」にあやかった訳ではないだろうが、乗り換えが不便な自社ターミナルの浅草だけでなく、新宿や池袋、大宮における首都圏広域からの集客を開拓したかったのかもしれない。

僕は、その表れが、平成7年に東武バスと関東バスが運行を開始した高速バス新宿-日光線・新宿-鬼怒川線であると思っている。

利用客の低迷から短期間で廃止されてしまったが、運行区間を見れば、高速バスと新生の特急「日光」は、まさに異榻同夢である。

東武鉄道が、高速バスで果たせなかった夢を、鉄道で実現したような気がしてならない。


 

今回の旅の当時、平成20年前後の東武鉄道の特急列車は、大きく様変わりしていた。


平成2年に新型特急車両100系「スペーシア」がデビューしていたものの、そのダイヤは、下りの東武日光行き「けごん」が、浅草を7時30分、9時30分、20時、21時に発車する4本だけに数を大きく減らし、8時から19時まで14本運転されている鬼怒川方面の「きぬ」が主役となっている。

上りでも、鬼怒川温泉を8時44発から19時25分発まで16本が運転される「きぬ」に対して、「けごん」は東武日光を9時54分発、11時54分発の2本だけという体たらくであった。


日光を訪れる観光客が減少していると耳にしていたものの、この頃の時刻表を開くたびに、僕は、どうしてしまったのだ日光よ、と心を痛めたものだった。


 

足利駅で「日光」の座席指定券を手に入れることができ、栃木駅の東武線高架ホームで電車を待つ間は、胸が高鳴った。

初めての特急列車に乗る体験は、久しぶりだった。

子供の頃から憧れていた特急電車の愛称を受け継いだ列車なのだから、尚更である。

ついに特急「日光」に乗れるのか、と思う。


定刻に姿を現したのは、東武日光駅を16時37分に出て来た「日光」2号で、東武の新鋭特急車両100系「スペーシア」と似た塗装に塗り替えたJRの特急用車両485系は、ひと目で日光直通列車であることが分かるけれど、内装はJRの標準的な特急用座席のままであった。


 

東武伊勢崎線で渡良瀬川の西岸に沿って南下し、利根川と合流する付近の栗橋駅の構内で減速した「日光」は、そろそろと東武とJRの連絡線を渡っていく。

車内の照明や空調音が、ふっと消える。

真っ暗になった客室で非常灯だけが仄かに瞬き、もうこんなに暗くなる時刻だったのか、と思う。

 

両社の連絡線では、双方の電流を区別するため、架線に電流が流れていない80mのデッドセクション(死電区間)が設置されていて、列車は惰行で通過していく。

JRの直流と交流電化区間の接続箇所でよく見かける構造であるが、たとえば小田急線とJR御殿場線を直通する特急「あさぎり」では、このようなことをしていたっけ、と思う。


栗橋駅で乗務員の交替が行われるらしいのだが、煌々と照明に照らされたホームに列車が滑り込んでもドアは開かず、乗降は出来ない。

なかなか車内の照明が復旧せず、人気が少ないホームを眺めながら、この列車は先に進んでくれるのだろうか、と不安が募る。

 

 

デッドセクション内の架線は東武鉄道の電線に接続されており、万が一、列車が途中で停止した場合には、東武側から電流を流して動かすことが出来る仕組みになっているという。

この年の3月にJR485系が故障した際に、東武鉄道100系による「スペーシア日光」が運転されたことがあり、故障するようなロートル車両をJRが投入していたことや、その代車を東武が用意したことなども含めて、この新宿-日光直通特急の運転には、東武の方が乗り気だったのではないかと勘ぐってしまう。


その後、「日光」のJR担当列車には、新幹線開業前の信越本線の特急「あさま」などで使用されていた189系が加わり、続いて、「成田エクスプレス」用に建造された253系車両が臙脂色に塗り替えられて充当されている。

JRは徹底してお古の車両を使っている訳で、かつて、「日光型」157系など日光線専用の豪華車両を製造していた国鉄時代とは温度差が感じられる。

 

 

それでも、「日光」「きぬがわ」のJR・東武直通特急列車は、2年あまりで100万人を輸送し、首都圏を代表する列車に成長した。

日光東照宮・日光二荒山神社・日光山輪王寺に含まれる103棟の建造物群と文化的景観が、「日光の社寺」と銘打って、平成11年12月に世界遺産に登録されたことも、追い風となったのであろう。

 

東北本線の田端信号所から山手貨物線に進入する、特急「日光」の都心部の経路は、同じ経路を通る湘南新宿ラインを使ったことがない僕にとって、なかなか新鮮だった。

定刻18時36分に、浅草駅とは比べものにならないほど賑わっている新宿駅に到着した時には、新しい時代の到来が感じられた。

 

 

新時代を迎えたのはバスも同じで、平成29年7月に、東武鉄道系列の東北急行バスが東京駅と日光・鬼怒川温泉を結ぶ高速バスを、また平成30年2月には、京浜急行バスと東武バスが横浜駅東口から羽田空港を経由して下今市駅・東武日光駅・鬼怒川温泉駅を結ぶ高速バスを開業した。

20年ぶりに、高速バスが日光へ乗り入れたのである。

 

いつか、この2つの高速バスに乗って、日光や鬼怒川温泉を再訪してみたいものだと思う。

 



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