第51章 平成18年 横浜発羽田空港経由の高速バスで房総半島を放浪する | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス横浜・羽田空港-茂原線、リムジンバス羽田空港-大網線】



平成15年3月に、京浜急行バスと小湊鉄道バスが、横浜駅と茂原駅を結ぶ高速バスを開業した時には、面白い商売を始めたものだ、と感心した。


横浜発着の房総方面路線は他にも走っているし、僕も横浜と五井を結ぶ高速バスに乗車したことがあるけれど、横浜-茂原線の興味深いところは、羽田空港に寄ってリムジンバスの機能も果たしていることであろう。

先行して、平成12年12月に羽田空港と茂原駅を結ぶリムジンバスが開業していたのだが、3年後に一部の便が横浜駅まで延伸した。

原則としてリムジンバスを扱わない全国版の高速バス時刻表にも、この時から掲載され始めたので、僕も注目したのである。


羽田空港からのリムジンバスは首都圏各地に多数が展開し、房総半島にも幾つかの路線が伸びているけれども、横浜と羽田空港の双方に停車する路線は、おそらく横浜-茂原線が初めてだったのではないか。

誕生の推移からすると起終点が羽田空港だけでは採算割れになっていたのか、それとも横浜と行き来したいという要望は多いものの路線を独立させるほどではないし、と事業者がどのように考えたのか定かではないけれど、この頃は、運転手不足の問題が顕在化した時期でもある。



今でこそ、首都圏発着の高速バスで複数の箇所を経由する路線は少なくないが、その嚆矢となったのは、平成元年に開業した、品川バスターミナルを起終点として横浜駅を経由し、伊賀上野と名張に向かう夜行高速バス「いが」号であったと記憶している。

この時は、地方側の町の規模が小さいため、首都圏側で需要を増やすために、都内ばかりでなく横浜でも乗降扱いを必要とするのだろう、と僕なりに解釈していた。


その後、横浜、大宮、千葉などといった衛星都市を発着し、都内のターミナルを経由する高速バスが急激に増えていく。

横浜駅と羽田空港をセットにした路線もその一環であり、小回りの利くバスだからこそ双方を経由する路線が設定できたと言える。



京浜急行バスは、その後に、


平成16年:羽田空港-横浜駅-箱根湯本-箱根ホテルはつはな

平成19年:横浜駅-羽田空港-君津バスターミナル-館山駅

平成23年:羽田空港-品川駅-河口湖駅-富士山駅

平成27年:品川駅-羽田空港-大多喜駅

平成30年:横浜駅-羽田空港-東武日光駅-鬼怒川温泉駅

平成30年:横浜駅-羽田空港-軽井沢駅

令和3年:羽田空港-横浜駅-甲府駅-竜王


と、横浜駅もしくは品川駅と羽田空港で集客する各方面の路線を拡充する。


最新の甲府線は、平成13年に開業した羽田空港向けのリムジンバスと、平成26年に開業した横浜線を、令和3年に統合したものである。

羽田空港と甲府を結ぶリムジンバスが開業した時には、山梨に住む人々も羽田空港を利用するのか、と、少しばかり意外に感じた。

水戸や宇都宮、前橋などに羽田空港のリムジンバスが開設された時にも同じ事を思った記憶があり、羽田空港がカバーする地域の広大さに感じ入ったものだった。


令和2年には、横浜・羽田空港と静岡を結ぶ路線も開業予定であったが、新型コロナウィルスの流行により延期されている。

空港のない北関東や山梨はともかく、静岡空港のある静岡県が?──と訝しく思ってしまうけれど、日本全国に空路を延ばし、国際線も増えている羽田空港を利用したいという需要を見込んでいるのだろう。



横浜と羽田空港を発着する箱根、富士山、日光、軽井沢線は、平成11年に日光、平成23年に富士山が世界遺産に登録されるなど、国内外からの観光客の増大と、羽田空港を発着する国際線の拡充に合わせて開業した路線と解釈できる。


特に、富士山と富士五湖に向かう高速バス路線の急激な増加は、目を見張るものがあった。

従来から運行されていた高速バスとしては、昭和31年開業の新宿駅発着「中央高速バス」や、平成14年開業の東京駅発着路線、そして季節運行であるものの平成元年から運行されている名古屋発着「リゾートライナー」といった古参路線が挙げられる。

加えて、渋谷、池袋、南大沢・京王多摩センター・聖蹟桜ヶ丘、横浜、町田・橋本、藤沢・辻堂・本厚木、川越・大宮、海浜幕張・津田沼・西船橋、高崎・前橋・渋川、静岡、静岡、松本、高山、金沢・小松・福井、京都・大阪、北九州・福岡など、関東各地に留まらず遠く信州・北陸・飛騨・九州までが、昼夜行を問わず富士山麓と結ばれるようになった。



いくら富士山が世界遺産で注目を浴びたとしても、少しばかり調子に乗り過ぎではないか、と前途を危ぶんだものだったが、案の定、廃止される路線が出て来た。

羽田空港と横浜を出入りする高速バスも、箱根線と軽井沢線が消えてしまい、京急バスが撤退して地方側のバス事業者だけが運行する路線も少なくない。


ブームと見れば一斉に触手を伸ばし、採算が合わないと見切ればさっさと撤退してしまうのは、これまで高速バス業界で繰り返されてきた事象である。

それもまたバスの小回りが利く一面、と解釈できるのかもしれないが、僕は若干冷めた目で眺めていた。



僕は、富士山や富士五湖への往来で、新宿発着「中央高速バス」以外を利用したことがない。


東名高速道路で相鉄バスの横浜-富士五湖線を見掛けたこともあるし、大宮駅前で富士五湖から到着した西武バスを目にしたこともあるけれど、それほど食指をそそられなかった。

膨大な路線数にいちいち付き合ってなどいられるか、と諦観していたのかもしれないし、観光客目当ての高速バスに1人で乗るのは、意外と勇気が要る行為である。

馴染みだった富士急行線の富士吉田駅が、平成23年に富士山駅に改名したことにも、強い違和感を感じた。


大学教養部の1年間は富士吉田市で過ごしたので、富士山周辺における高速バスブームが学生時代に発生していれば、片っ端から乗り潰したのに、と若干の無念に駆られるのも確かである。

学生時代は品川区大井町に住んでいたため、富士吉田との行き来には、新宿駅よりも東京駅や横浜駅、羽田空港の方が便利で、どうしてもっと早く登場してくれなかったのか、と恨めしくなった。

軽井沢線が廃止された時には、故郷信州へ向かう横浜・羽田発着路線に、何を差し置いても乗っておくべきだった、と臍を噛んだ。


僕も、節操がないと言われたって仕方がないだろう。



前置きはさて置いて、横浜・羽田空港-茂原線に乗りたくなった僕は、平成18年の晩秋に、横浜駅東口の横浜シティエアターミナル(YCAT)と併設されているバスターミナルに足を運んだ。

日曜日の午前10時になろうとする頃合いで、混雑する横浜駅のコンコースから東口に向かう人波は少なくなかったが、その大半が、開店時間を迎えたばかりのそごう百貨店に吸い込まれてしまい、YCATやバスターミナルに歩を運ぶ人影は僅かだった。


横浜駅東口は、弘前、盛岡、仙台、福島、飯田、名古屋、大阪、神戸、広島を行き来する夜行高速バスで利用したことがある。

旅立ちの期待に胸を高鳴らせて意気軒高とバスに乗り込み、もしくは早朝に眠い目をこすりながら降り立ったことが、今でも懐かしい。


コンコースから狭い階段を昇ってホームに出ても、夜行高速バスが出入りする時間帯ではないからひっそりとしていて、唯一、昭和43年から運行されている老舗の羽田空港リムジンバス乗り場だけに人だかりが出来ている。



10時15分発の茂原行きのバスを待つ乗客は、10名に満たない数だった。


この便は京浜急行バスの担当で、「KEIKYU LIMOUSINE」と車体に大書された羽田空港リムジンバスと同じ外観である。

そのためか、大きなトランクを抱えながら息せき切って階段を駆け登ってきた2人連れの若い女性が、


「あ、このバスよ。早く早く」

「良かった、これで飛行機に間に合うね」


と話しながら、このバスに乗り込もうとする。


「茂原行きですけど」


と、運転手が苦笑しながら押し止める。


「え?羽田に行かないの?」

「マジ?あの、羽田空港へ行くバスは?」



厳密に説明するならば、このバスも羽田空港に行くけれど、空港で降りることは出来ない掟がある。

つまり、横浜-茂原線がリムジンバスとして走るのは、あくまで羽田空港と茂原の間だけであって、横浜と羽田空港の間では空港連絡機能を付加されていない。

出発地側の停留所は乗車だけ、到着地側では降車だけというクローズド・ドア方式を説明しても、混乱するのは彼女たちばかりではないだろう。


若い運転手が前方の乗り場を指さすと、


「やだ、間違えちゃった」

「だからギリギリになるのは嫌だったのよ」

「しょうがないじゃない、寝坊しちゃったんだもん」

「“モバラ”って何処にあるのかしら」

「知らないわよ」


賑やかなやりとりが足早に遠ざかり、前方に停車していた羽田空港行きリムジンバスが、2人を収容するなり発車して、こちらのバスも後を追うように扉を閉めた。



茂原行きのバスが、横浜駅東口ランプから首都高速横羽線の高架に駆け上がったのも束の間、道路は急な下り坂になって、ビル街の谷間に口を開けているトンネルに潜り込んでいく。

密集した都心部の首都高速横羽線は、東横浜トンネル、桜木町トンネル、花園トンネル、花園橋トンネルが断続する。

トンネルとトンネルの合間の堀割部分には、天井に格子状に渡された柱の隙間から空が覗く部分もあるけれど、首都高速狩場線と合流する石川JCTまで、実に4km近い区間が地下に設けられている。


首都高速横羽線が初めて開通したのは、昭和43年に完成した羽田ランプと東神奈川ランプの間であった。

昭和47年に東神奈川ランプ-金港JCT間、昭和53年に金港JCT-横浜公園ランプ間、昭和59年に横浜公園出入口 - 石川町JCT間が順次延伸して、全線開通を迎えた。

当初は高架にする計画だった横浜の都心部分を地下構造に変更し、地下鉄をはじめとする最大5層のトンネルを重ねる工事には、高度な技術力を要したと聞いている。


右へ左へと急カーブが続き、自分でハンドルを握っていても走りにくいな、と溜息が出る道路であるけれど、その成り立ちを振り返れば、ここに都市高速を建設したこと自体が奇跡に思えてくる。



首都高速狩場線に入ると、高度が上がって高架区間に変わり、窓外を次々と流れ去る建物の合間から、建て込んだ市街地の屋根越しに、小高い「港の見える丘」が遠望できる。

佐山哲郎の原作で、スタジオジブリのアニメ映画にもなった「コクリコ坂から」の舞台が横浜であり、コクリコ坂は「港の見える丘」にあったことが思い出される。

コクリコは雛罌粟と漢字表記され、フランス語でヒナゲシを意味するという。

歌人でもあった原作者が、与謝野晶子の短歌「ああ皐月 仏蘭西の野は 火の色す 君も雛罌粟 われも雛罌粟」から採ったと言われている。


東京湾に向かって突き進むバスの行く手に、やがて、本牧埠頭と大黒埠頭を結ぶ全長860mの横浜ベイブリッジが堂々たる全貌を表した。



今でこそ、レインボーブリッジやゲートブリッジ、アクアブリッジなど、観光名所となるような橋梁が幾つも登場しているけれども、横浜ベイブリッジが完成した平成元年の頃は、渡るだけで横浜都心部や港湾の景観を一望でき、鑑賞にも耐え得る美しい斜張橋であることから、見物客が押し寄せる首都圏唯一の橋梁だった。

高速道路にも関わらず、本線上に駐車する車が後を絶たないという騒ぎが起きたことを、今でも覚えている。


大黒埠頭側の橋のたもとには、道路下に設けられた展望台までの遊歩道「横浜スカイウォーク」があり、横浜駅から市営の2階建てバスを利用して出向いたことがある。



横浜市を象徴する一大建造物である一方で、横浜ベイブリッジの下を通過できない大型客船の問題が生じ、横浜港は大型客船の誘致合戦で遅れを取ってしまったと聞く。


横浜ベイブリッジの海面からの高さは約55mで、当時世界最大だった豪華客船「クィーン・エリザベス」号がくぐれるように設計したらしいのだが、その「クイーン・エリザベス」号ですら、干潮の時間帯を狙って潮待ちし、ギリギリの高さで通過しているという。

他にも、「クィーン・メリー2」号や「ボイジャー・オブ・ザ・シーズ」号、「ダイヤモンド・プリンセス」号と言った世界を代表する大型客船が、横浜ベイブリッジの下を抜けることが出来ず、貨物用の大黒埠頭に接岸したり、横浜への寄港を取り止めて大阪港や神戸港への変更を余儀なくされた。

「クィーン・エリザベス」号も、天候の影響で横浜への寄港時間が干潮とずれてしまい、急遽神戸港に向かうアクシデントが発生したことがある。


平成29年に横浜大桟橋の代替として大黒埠頭に客船ターミナルが完成し、本牧埠頭A突堤にも、令和7年の完成を目指して客船ターミナルが建設中である。



横浜ベイブリッジを渡り始めると、狭隘で旧式な首都高速横羽線や狩場線と比べて、あまりに広々とした贅沢な造りに、一瞬、速度が落ちたのか、と錯覚してしまう。

片側2車線のレインボーブリッジでは味わえない、豪快な感覚である。


左右の眺望を意のままにしながら巨大な斜張橋を渡り終えると、首都高速大黒線を分岐する大黒JCTには見向きもせず、バスは大黒埠頭、扇島、東扇島、浮島と湾岸の埋立地を次々と渡っていく。


首都高速湾岸線と横羽線を短絡して平成元年に完成した大黒線は、湾岸線が大黒JCTから空港中央ランプへ伸びる平成6年まで、横浜ベイブリッジ見物に欠かせない道路であった。

当時、バイクに乗っていた僕が、都内から横浜ベイブリッジに向かうためには、首都高速横羽線に乗り、生麦JCTで大黒線に乗り換えてベイブリッジを渡り、狩場線、横羽線と回遊したものだった。

首都高速湾岸線が横浜から都内まで延伸してからは、使う頻度がめっきり減ってしまったけれど、首都高速のドライブはこれほど楽しかったのか、と酔い痴れたルートが、大黒線だった。


今でも首都高速大黒線を走ると、その頃の様々な思い出が脳裏に蘇って、甘酸っぱい気持ちになる。



それまで首都高速横羽線を経由していた横浜-羽田空港リムジンバスは、湾岸線経由に乗せ換えて所要時間を短縮した。

古くからの密集した工場地帯を貫く首都高速横羽線の目まぐるしさと対照的に、同じ京浜工業地帯でありながら、湾岸線の車窓はゆったりと流れて、もどかしいほどである。

もっと速度を上げても良いのではないか、と怪しからぬ感想すら浮かんでくる。


本牧埠頭、大黒埠頭、扇島、東扇島の間は、それぞれ橋梁で結ばれている。

中でも大黒埠頭と扇島の間にある鶴見つばさ橋は、斜張橋としては我が国第3位の510mという中央径間長を持ち、全長は一面吊りの斜張橋としては世界一の1020m、外観もベイブリッジに劣らず流麗である。



その先の東扇島から浮島、そして浮島から羽田空港に渡る区間は、航空機の離発着を妨げないよう、長さ1954mの川崎航路トンネルと、2170mの多摩川トンネルが設けられている。


浮島から東京湾アクアラインが分岐するのだが、バスは素知らぬ顔で本線を猛進し、空港中央ランプでいったん高速走行を中断する。

この路線のもう1つの顔であるリムジンバスとしての役割を果たすべく、まずは第2ターミナルに寄って第1ターミナルに向かい、それぞれ十数人ずつの乗客を収容してから、湾岸環八ランプで首都高速湾岸線に乗り、2度目の川崎浮島JCTに戻ってくる。

川崎浮島JCTから羽田空港を往復して東京湾アクアラインに入るまで、およそ20分あまりが過ぎていた。



この20分を長いと感じるか短いと思うかは人それぞれであろうが、横浜と茂原を羽田空港経由で結ぶ高速バスは、羽田空港最寄りの湾岸環八ランプと川崎浮島JCTが、多摩川を挟んで2.3kmしか離れていないという立地条件を抜きにしては、登場し得なかったと言えるだろう。

路線を企画した人物の着眼点には敬服する。


僕が乗った便は、横浜駅よりも羽田空港の利用客の方が多く、これを道草と言っては怒られるかも知れない。

当時1日7往復が運行されていた横浜-茂原線は、下りの1便が羽田空港を通過する直行便、2便が羽田空港発着便となっており、上りでも通過便こそ設けられていないものの、2便が羽田空港止まりとなっている。

羽田空港通過便は、他の便に比して所要時間が25分短縮されているから、横浜から茂原に直行する乗客には寄り道にしか思えないかもしれないが、僕は横浜と羽田空港の双方に停車する面白さを体験したくて乗り込んだのであるから、文句のあろうはずがない。



それまでは、移り変わる車窓に夢中になって、あまり空を見上げていなかった。

アクアトンネルをくぐり抜けてアクアブリッジに飛び出すと、雲が低く垂れ込めて今にも泣き出しそうな空模様に、初めて気づいた。

左右に広がる海原も、正面の房総半島も、海上を漂う霞の彼方に隠れてしまい、全く見晴らしが利かない。


湾内を航行する船舶は、速度を落とし、レーダーを凝視しながら操舵しているのだろうな、と思う。

我が国における大規模な橋梁やトンネルは、青函連絡船洞爺丸の沈没事故によって計画が具体化した青函トンネルや、宇高連絡船紫雲丸事故がきっかけとなった備讃瀬戸大橋をはじめ、渡船の海難事故を防ぎ、海上交通を立体交差にすることで航路の混雑を緩和する目的で建設されたものが少なくない。

東京湾アクアラインも、開通までは川崎-木更津間に1日20往復を超えるフェリーが横切っていたのだから、その立体交差の恩恵は絶大である。



房総の陸地が、霞の中から蜃気楼のようにぼんやりと浮かび上がってくれば、東京湾の横断は終わりである。

木更津金田の料金所を通過してアクア連絡自動車道を走り抜けると、バスは木更津JCTで館山自動車道上り線に乗り換え、木更津北ICで高速道路を下りた。


沿道にぎっしりと民家や商店がひしめく国道409号線・房総横断道路を東へ進む経路は、この旅の前年に東京と御宿を結ぶ高速バスでも通った。

しかし、同線が停車した袖ケ浦市内の横田、東横田、高谷といった国道上の停留所に、茂原行きのバスは見向きもせず、最初に停車したのは、小湊鉄道の上総牛久駅であった。


大正14年に建造され、国の有形文化財に指定されたという赤瓦の木造駅舎が、今も健在だった。

この辺りまでが東京湾岸への通勤圏であり、当駅止まりの列車も少なくないと聞く割には、鄙びた佇まいである。



駅前広場には各方面への路線バスが数台停車しているが、こぢんまりとした駅舎よりも大きく見える観光タイプのハイデッカーに、「安房小湊」と行先表示が掲げられているのを見て、僕は思わず身を乗り出した。


東京と御宿を結ぶ高速バスには、途中の勝浦から先で小湊に向かう別系統が存在し、僕は迷った挙げ句に御宿系統を選んだ。

小湊系統もいつか乗車してみたい、と思いながら未だに果たせていないのだが、横浜からの高速バスに接続して、上総牛久駅から安房小湊駅に向かう路線バスが存在するとは知らなかった。

ここで下車して小湊行きに乗り換え、帰路を東京行き高速バスに初乗りしたい、という衝動に駆られたが、待て待て、今回の旅は趣旨が違うぞ、と思い止まるのに苦労した。



東京から御宿行きの高速バスは、牛久で国道297号線・大多喜街道に折れて南へ向かったが、茂原行きの高速バスは、養老川の支流の内田川に沿う国道409号線を、そのまま東に進み続ける。

牛久を境にめっきりと家並みが途絶え、バスはなだらかに連なる丘陵の合間に広がる田畑を見遣りながら、緩やかな曲線を描く道路をひた走る。

この道を通るのは初めてだったが、房総横断道路は、同じく半島を横断する東京-勝浦・小湊・御宿線や東京-安房鴨川線が通る大多喜街道や房総スカイラインと対照的に、伸びやかな車窓で、なるほど房総丘陵だ、と思う。


沿道にはゴルフ場が多いようで、「市原ゴルフクラブ」「千葉新日本ゴルフ倶楽部」「太平洋クラブ」「長南カントリークラブ」といった看板が目立つ。

大部分はこんもりとした丘や雑木林に隠れているけれども、稀に、綺麗に芝が整えられたコースが垣間見えるところもある。



市原市は、湾岸に石油コンビナート群を抱える我が国有数の工業都市であると同時に、ゴルフ場の数が日本最多なのだという。

世界には3万5000を超えるゴルフ場が存在し、1万7000以上のゴルフ場を持つ米国が圧倒的に多く、2位が2700の英国、我が国のゴルフ場の数はおよそ2500で、世界第3位である。


僕はゴルフを嗜まない人種で、その面白さが今ひとつ理解できない。

富士吉田の教養部で、ゴルフ部の友人に試し打ちをさせて貰ったところ、球が飛ぶどころか、初めて握るクラブにきちんと当てるのもひと苦労だった間抜けな経験が、敬遠する一因になったと思っている。


上総牛久駅と茂原駅の間には、市原市と茂原市に挟まれた長南町に1ヶ所だけ、笠森という名の停留所が置かれている。

笠森と聞けば、岩の上に61本の柱で支えられた四方懸造を持ち、京都の清水寺にも似た観音堂がある笠森寺が思い浮かぶのだが、停留所が置かれていたのは、近くに大きな霊園が存在する山あいで、目立った集落も見当たらず、停車箇所を絞った高速バスがこのような場所に停車するのか、と首を傾げたくなった。



長南町とは、気になる地名である。

明治30年に長柄郡と上埴生郡が統合して長生郡が発足し、郡内の庁南町、西村、東村、豊栄村が昭和30年に合併して長南町を名乗っているので、長生郡の南部という意味合いと、旧庁南町の名をもじっているのかもしれない。


この旅の8年後である平成25年に、首都圏中央連絡道、いわゆる圏央道が木更津東JCTと東金JCTの間で開通した際に、横浜-茂原線も、東京湾アクアラインと繋がった圏央道に乗せ換えられて、所要時間の短縮を果たした。

国道409号線は経由しなくなり、上総牛久駅と笠森停留所にも停車せず、今では、圏央道市原鶴舞ICに完成した市原鶴舞バスターミナルと、茂原長南IC近くの長南駐車場に停車するようようである。



今では経験できなくなった貴重な道行きだったのだが、居眠りでもしたのか、笠森から先の記憶が漠然としている。


終点の茂原市は、九十九里平野の一角に位置しているので、外房と言っても良いだろう。

九十九里浜の海水浴場がある大網白里市や白子町も東隣りであるけれど、海の匂いが漂ってくるような街ではなかった。

茂原駅前に到着した時には、それまでの鄙びた車窓とは打って変わって、イオンや三越、そごうといった大型店舗や都市銀行をはじめとする近代的なビルが建ち並ぶ駅前に、思わず眼を見張った。

明治24年に発見された南関東ガス田を中心に近代産業が発展した歴史を持ち、天然ガス埋蔵量3685億立方メートルというガス田のうち、茂原市の埋蔵量は約1000億立方メートルを占め、生産量が日本一という資源都市である。


茂原の地名は、平安時代に拓かれた荘園に湿地が多かったことから「藻原荘」と呼ばれ、転じて茂原になったと伝えられているが、そのような鄙びた面影は微塵も感じられない。

茂原市民に叱られるかも知れないが、横浜から2時間05分、羽田空港から1時間半をかけてたどり着いた房総半島の奥まった土地に、忽然と殷賑な街が出現するとは、狐に化かされたような心持ちだった。



この地域の中心都市であることの表れとして、平成22年に、茂原駅と東京駅を行き来する高速バス路線が誕生している。

これまで、房総半島で東京都心部と直結する高速バスの起終点となった街は、袖ヶ浦、木更津、君津、館山、南房総、大多喜、鴨川、小湊、御宿、茂原、大網白里が挙げられる。

途中経由地を加えれば、ほぼ房総全域を網羅したと言っても良く、東京湾アクアラインの恩恵は隅々まで行き渡ったと言っていいだろう。


駅前のファーストフード店で軽く昼食を摂ってから、僕はJR外房線で4駅先の大網駅まで足を伸ばした。

僅か11.4kmしか離れていないにも関わらず、千葉行きの各駅停車にぼんやりと揺られているうちに、車窓はいつしか長閑さと落ち着きを取り戻していた。



外房線と東金線のホームがY字型に配置されている大網駅前は、日曜日の昼下がりとは思えないほどひっそりとしていた。

古めかしいけれども、昔ながらの鉄道の要所、といった雰囲気に、何となく心が安らぐ。


僕は、ここから羽田空港行きのリムジンバスで帰る心積もりだった。

無論、航空機に搭乗する予定などなく、羽田空港から路線バスで帰宅するだけである。

何のために、わざわざ茂原や大網まで来たのかと思う。


振り返ってみれば、東京湾アクアラインの開通以降の房総の旅は、年を追うごとに路線数を増やしていく高速バスに誘われるまま、当てもなく彷徨っていただけのように感じられる。

鉄道で通過したことはあっても、高速バスがなければ決して足跡を記さなかったであろう土地も少なからず訪れることが出来たのだから、貴重なひとときを過ごせたではないか、と無理やり自分を納得させているのだけれど。



15時発の羽田空港行きリムジンバスは、房総丘陵と下総台地の境を成す県道20号線を西へ進み、千葉市内に歩を進めて、外房線の土気駅と誉田駅、鎌取駅に立ち寄る。

休日であるためか、この時間帯に航空機で出掛けようという利用客は少なく、車内は終始閑散としていた。

車窓は、駅を囲む閑静な住宅街と、コンビニ、ファミレス、ガソリンスタンド、車販店ばかりがひしめく近郊風景を映し出す。


ここはもう房総半島ではないのだな、と思う。



平成24年に、土気・誉田・鎌取から京葉自動車道と東関東自動車道を経由して新宿に向かう高速バスが走り始め、僕も後に乗車することになる。

後に大網駅に延伸されたものの、深夜の1往復だけになってしまい、令和を迎える寸前の平成31年4月に廃止されてしまった。

大網駅のある大網白里市は、東京直通便を持つ街になり切れなかったのか、と思いきや、平成21年に開業した東京駅と中里海岸を結ぶ高速バスが、大網駅を経由している。


千葉中央バスが担当する羽田空港行きのリムジンバスは、松ヶ丘ICから館山道に入り、黄昏の田園地帯をひたすら南下してから、木更津JCTで東京湾アクアラインに針路を定めた。

大網駅から京葉道・東関道と首都高速湾岸線を使って羽田空港まで77km、東京湾アクアライン経由で76kmと、殆ど差が見られない。


新宿-土気線と同じ経路であれば、東京湾を1周する楽しい行程になったのだが、都内の混雑を考慮すれば、興醒めでも往路と同じ経路を戻ることに異論はない。



秋の日は釣瓶落としだった。


大網駅から羽田空港まではきっかり2時間、バスがアクアブリッジを渡り始めたのは、午後4時半になろうかという頃合いである。

早くも薄暮が覆う暗い海原から、数時間前のような霞は払われていたけれども、それでも船舶の灯が点々と映るだけの車窓だった。


バスに乗るのは楽しいけれども、このような寂しい夕景に包まれれば、一刻も早く家に帰りたくなった。




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