ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:京成「スカイライナー」、リムジンバス成田空港-新宿線】
 

人間は速さに憧れる生き物である。
陸上競技のアスリートは秒単位で競い合い、乗り物でも、超音速旅客機コンコルドや、新幹線をはじめとする世界各地の高速鉄道の人気ぶりは、単に所要時間が短縮される利便性だけが原因ではないのではないか。

振り返ってみれば、乗り物好きの僕でも、その速度に魅力を感じ、体感したくなって旅を企てたことは、それ程多くない。
生まれて初めて乗り物のスピードを意識したのは、新幹線を初体験した時であっただろうか。
それとも、父の運転する車で、初めて高速道路を走った時だったか。
前者は、東海道新幹線の0系「こだま」で東京から三島まで乗車し、後者では開通したばかりの中央自動車道伊北ICから飯田ICまで走った時で、いずれも僕が小学校低学年の家族旅行で、昭和50年前後のことである。
 
初めて飛行機に乗ったのは19歳の時で、日本航空羽田-伊丹便のボーイング747型旅客機だったのだが、速度と言うよりは、空の旅を経験してみたいという気持ちが強かった。
 
 
ただし、速くて便利という利用者側の論理だけでは、交通機関は成立しない。
技術革新の裏側で、犠牲になるもの、失われるものも少なくないと思う。
 
コンコルドも、コストの高さや騒音・衝撃波などといった環境問題が原因で後継者を生むことなく消えてしまい、日本に定期航路として飛来することはなかったから、乗る機会に恵まれなかった。
コンコルドを体験するツアーの募集を目にして、大いに心がそそられたけれども、それだけの暇も金もなかった。
他の航空機は、どのような最新鋭旅客機でも、コストに見合った亜音速で運航されているから、公共交通機関としては飛び抜けたスピードを誇っているにもかかわらず、速度を強く意識した記憶はない。

 

 
手の届く範囲で高速走行を実感させてくれたのは、鉄道である。

東海道・山陽新幹線で500系車両が「のぞみ」で運用されていた時代には、山陽区間での時速300km運転が乗車の動機であったのは間違いなく、また東北新幹線でE5系「はやぶさ」に乗った時も、最高速度の時速320kmを強く意識していた。
在来線では、上越新幹線に接続して越後湯沢と金沢を結んでいた特急「はくたか」が、北越急行線内で時速160kmを出していたことが我が国の最高記録で、こちらも2回ほど乗車している。

 

 
平成27年の初秋のこと、久しぶりに、スピードに惹かれて旅に出た。

京成上野と成田空港の間を結ぶ京成電鉄の特急「スカイライナー」は、平成22年7月に開業した京成成田空港線、通称成田スカイアクセス経由として生まれ変わった際に、「はくたか」と並ぶ時速160km運転を開始した。
東京から離れていることが弱点の1つとされていた成田空港が、この高速運転によって、日暮里駅から36分で結ばれることになったのである。
 
 
仕事を終えた土曜日の午後、都営地下鉄大江戸線上野御徒町駅に降り立った僕は、長大な地下通路を北へ歩いた。
地上を歩けば、アメヤ横丁などを冷やかしながらの楽しい散策になったことであろうが、大江戸線の駅から京成上野駅まで、中央通りの地下を貫く通路で繋がっていることを知って、試しに通ってみたくなったのだ。
 
店舗が並んでいる訳でもなく、人通りは決して多くないけれども、照明が隅々まで行き渡り、真っ白な壁面に広告が並んでいる幅広の地下道に、陰鬱さはなかった。
「台東区長奨励賞」を授与した東京藝術大学生の作品が並んでいる一角もあって、飽きることはない。
人影はまばらで、おそらく地上の何十分の一程度の通行量であろうが、雨でも降れば増えるのだろうか。
 
 
1km近い、なだらかな登り坂の地下道を歩き終わり、短い階段を昇ると、いきなり壁面や天井がくすみ、周囲が古びた印象になる。
京成上野駅である。
JR上野駅のような、長年東北・上信越方面への玄関として君臨し、郷愁を帯びた情緒には欠けるけれど、成田空港への玄関として昭和48年に新装された駅の構内は、充分に年輪を感じさせる重厚さがある。
居並ぶ券売機や窓口、改札を見回せば、歳月が短絡したような懐かしさが込み上げて来た。
 
 
この駅を初めて利用したのは、30年以上も前の昭和58年、僕が高校3年の夏休みだった。
予備校の夏期講習を受講するために上京していた僕は、休日に、開港5年目の成田空港を訪ねてみようと企てて、上野駅から京成電鉄の「スカイライナー」に乗り込んだのである。
 
昭和53年に新東京国際空港が開港した当初は、京成電鉄線が唯一の空港連絡鉄道だったが、成田空港駅は空港ターミナルビルには乗り入れず、現在東成田駅となっている1kmほど離れた場所に置かれて、連絡バスへの乗り継ぎを必要としていた。
この頃の「スカイライナー」は、クリーム色と茶色に塗り分けられた初代AE車両で運転され、成田空港までノンストップ、30分ごとの頻回運転で、客室の両端には大きな荷物置き場が設けられていることなど、さすがは空港アクセス鉄道、と感心する設備も見受けられた。
 
 
日暮里まで上野公園の地下をくぐり抜け、高砂、小岩、中山、八幡、船橋、習志野と進む京成本線の前半部分は、下町の真っ只中を縫っていく急な曲線が連続するために、もどかしい走りっぷりである。
 
大手私鉄の有料特急列車に乗車したのは、小学生の頃に東武鉄道の日光行き「けごん」以来のことだったので、同じノンストップ運転でも、浅草-日光間135.5kmを1時間40分で結ぶ、表定速度が時速80kmを超える「けごん」と比べれば、上野-成田空港間の69.3kmを60分もかかけ、表定速度が時速70kmにも満たない「スカイライナー」は、どうしても見劣りがした。
京成船橋と京成成田の間は、千葉まで大回りする国鉄総武本線・成田線よりも短い線形になっているため、京成線の方が所要時間は短いが、東京と成田の間で比較すると、都心側の速度制限のために、所要時間はほぼ互角となっていた。
そのため、船橋以東から京成線を利用する客が都心へ向かう場合には、JR線に乗り換えてしまうことが少なくないと聞く。
 
 
「スカイライナー」が通過していく駅のホームは狭く、駅舎は古びていて、電車を待つ人々の鼻先をかすめていく光景にはヒヤリとさせられた。
成田空港に降りた外国人が最初に目にする鉄道が、このような有様でいいのだろうか、と心配になった程で、紀行作家宮脇俊三氏が「スカイライナー」に乗車した時も、京成船橋駅の混雑やダイヤの乱れについて記した挙げ句に、
 
『そんな駅を「スカイライナー」が掃き溜めに降りた鶴のように颯爽と通過していく(「終着駅は始発駅」所収「東京の私鉄7社乗り比べ」より)』
 
などと書き記している。
 
京成習志野を過ぎて左へカーブを描きながら、人口密度が高い湾岸地域から離れていくと、少しは特急列車らしい速度になるのだが、60分かけてたどり着いた成田空港は、やはり遠く感じたものだった。
 
 
「スカイライナー」を降りると、改札のすぐ先に長い列が出来ている。
何事かと思いながら近づいていくと、改札と連絡バス乗り場の間に簡素な建物が立ちはだかり、空港の手荷物検査場に似た検問所が設けられているではないか。
びっくりしたけれど、ここで引き返したら不審者に間違えられるぞと自分に言い聞かせ、不安を押し殺しながら列に加わって順番を待っていると、初老の警備員さんが厳しい表情で僕と向かい合った。
 
「身分証は?」
 
高校の学生証でいいのだろうか。
 
「パスポートはないの?飛行機に乗るんじゃないの?」
 
まさか!──僕はまだ、1度も飛行機に乗ったことはございません、という台詞を慌てて飲み込みながら、僕は首を振った。
 
「じゃあ、何しに来たの?」
「えっと……け、見学です」
「ちょっと、こっち来て」
 
周りの客からジロジロ見られながら、僕は列の外に連れ出された。
やっぱり不審者として逮捕、事情聴取されてしまうのだろうか。
過激派には見えないと思うのだが、親に連絡でもされようものなら、どのように言い訳すればいいのだろう。
講習をサボっている訳ではないから、許してくれるであろうか。

「はい、キミ、これ書いて」
 
と渡されたのは、「空港見学届け」であった。
送迎も含めて、成田空港へは飛行機の利用客以外の立ち入りが制限されていた時期もあったと後に知ったから、これは温情だったのかも知れない。
 
 
激しい反対運動を経て、昭和53年に開港した新東京国際空港の歴史は、日本人として決して忘れてはならないと、僕は思っている。
周辺住民の根強い反対運動や過激派の抵抗は、開港後も続いているため、成田空港は、長いこと厳しい警備に守られてきた。
日本の空港では唯一の検問制度が実施され、鉄道ばかりでなく、リムジンバスをはじめとする車での入場も含めて、空港施設への入場者全員に、検問所における身分証明書の提示が課せられていた。
機動隊が空港内を巡回するなど、世界でも異例の厳重警備態勢が敷かれ、戒厳令空港と呼ばれる程だったのである。
 
 
時代は下って、平成7年3月に開業した、東京駅と総武本線八日市場駅を結ぶJRバス関東の高速バスに乗車した時の情景は、印象深く心に刻まれている(「平成7年 高速バス東京-八日市場線で現代の古戦場をゆく」 )。

首都高速道路湾岸線から東関東自動車道に入り、富里ICから一般道に降りたバスが、信号待ちで停車した交差点で、僕は思わず息を呑んだ。
信号機にぶら下がっている地名標識には、「三里塚」と書かれていたのである。
 

バスは、木立ちに囲まれ、ひっそりとした佇まいの三里塚公園停留所に寄り、成田空港A滑走路の南を迂回しながら、航空博物館、岩山、白桝、染井、多古と、平坦で広大な農業地帯を走り抜けて、太平洋岸に近い八日市場に向かった。

背の高い金網で囲まれた空港の敷地は、鄙びた景観にはそぐわない物々しさであったけれど、車窓の大半は、昼下がりの陽光がきらめき、平和な静寂に支配された、眠気を誘うような農村風景であった。 
それでも、僕が子供の頃、三里塚をはじめ、岩山、多古などといったこの辺りの地名がニュースで取り上げられない日がなかったことに、どうしても思いを巡らさない訳にはいかない。
東京-八日市場間高速バスの旅は、あたかも古戦場めぐりをしているかのようだった。 
三里塚は、我が国のみならず、世界の耳目を集めた騒乱の地だったのである。
 
 
最終的な成田空港の建設計画は、用地が成田市・芝山町・大栄町・多古町に跨る1065haと広大なもので、そのうち4割は皇室の御料牧場を利用、残りの670haの民有地は、用地買収交渉の対象者が325戸、千数百人にも及んだ。

ところが、政府・行政と千葉県との間では調整が行われたものの、地元住民からの意見聴取は行われなかった。
突然、空港を押し付けられた成田市と芝山町は、ほぼ反対一色に染まり、革新政党の指導を受けて「三里塚芝山連合空港反対同盟」を結成、その下部組織として少年行動隊・青年行動隊・婦人行動隊・老人行動隊が組織され、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨む。
反対派住民の中には自民党支持者も多く、同党議員への陳情も行われたが、それらの議員が空港建設賛成の言動を変えることはなかった。

一方で、反対同盟が「あらゆる民主勢力との共闘」と称し、ベトナム反戦運動や日米安保条約反対運動などで実力闘争を掲げ、暴力的な手段を厭わない新左翼党派の受け入れを表明したことで、革新政党は反対同盟と距離を置き始める。
与野党の党利党略に翻弄されつつも、国家権力への対抗手段を模索する反対同盟は、藁にもすがる思いだったのであろうか。
血で血を洗うような激しい衝突が繰り返される「三里塚闘争」が、幕を開けてしまったのである。


昭和40年代から半世紀にも及ぶ三里塚闘争では、反対派青年行動隊の男性が「私はこの地に空港を持ってきた者を憎む」との遺書を残して自殺し、反対派と機動隊の大規模な衝突の最中に27歳の支援者が頭部にガス弾の直撃を受けて死亡している。
3名の機動隊員が惨殺された東峰十字路事件や、警察官1名が死亡した芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件など、少なからざる犠牲者が発生し、反対派と警察・公団職員双方に多数の負傷者が出ていることを合わせて考えれば、三里塚闘争は、戦後日本が経験した一種の内戦だったのだと思う。 

昭和53年5月20日に、新東京国際空港は漸く開港を果たす。
空港建設を促進してきた政府関係者の思いは、当時の運輸大臣が式典で、
 
「難産の子は健やかに育つ」
 
と述べた言葉に凝縮されている。

開港後も、新左翼活動家による東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件や千葉県収用委員会会長襲撃事件といった左翼テロが横行し、土地を売却した農家への放火といった嫌がらせや、新左翼党派間での内ゲバが発生するなど、成田空港が開港した昭和53年から平成29年までの40年で発生した成田関連のゲリラ事件は511件にも上り、全国で発生したゲリラ事件の半分以上を占めた。
成田空港の現状がどれほど華やかであろうと、血塗られた歴史を消し去ることはできない。
速くて便利という利用者側の論理だけで、交通機関は成立しないのである。

 
僕が成田空港を利用した回数は、ほんの数える程である。
初めて訪問した時の検問の経験から、どうしても敷居を高く感じてしまっていたことも一因であるが、時速160km運転を謳う新「スカイライナー」は、それを凌ぐ魅力があった。

京成上野駅から成田空港へ向かうのは、初訪問以来30年ぶりだった。
細部に変化はあるのかも知れないが、京成上野駅の佇まいは、30年前とまるで変わっていないかのように見受けられた。
 
ホームに入線している16時20分発「スカイライナー」45号と対面してみれば、のっぺりした相貌だった初代AE車に比べれば、新しいAE車両のフロントマスクは、楔を連想させるような鋭さである。
新AE車両の「スカイライナー」の車内設備が特別に変化した観はなく、座席の色調は変わっても、シンプルなリクライニングシートが整然と並んでいる光景は、初代AE車と同じである。
 
 
京成電鉄が開業した当初は、起点が京成上野駅ではなく、現在、京成本線と都営地下鉄浅草線に直通する押上線が合流する押上駅であった。
同社は、上野から筑波への路線を計画していた筑波高速度電気鉄道を買収した上で、昭和6年に日暮里まで、そして昭和8年に京成上野までが開業し、都心への乗り入れを果たしたのである。
京成電鉄は、上野と押上の間さえ手に入れればいい、と言わんばかりに、筑波高速度電気鉄道の他の区間の免許を放棄してしまったのだが、平成17年に開業したつくばエクスプレスは、ほぼ同じ経路を採っているという。
 
 
京成上野駅を発車した「スカイライナー」が、右に左に曲がりくねった上野公園の地下トンネルを徐行しながら進んでいく旅の導入部は、40年前と変わるべくもない。

上野公園は、大正13年に皇室の御料地が東京市へ払い下げられたものであるため、京成電鉄が地下線を建設する条件として、桜をはじめとする樹木の根を損傷してはならないこと、寛永寺など地上建造物に影響を及ぼしてはならないことといった厳しい条件を申し渡されたので、このように曲線だらけのトンネルになったという。
 
 
かつて、京成上野と日暮里の間には、起点から0.9kmの地点に博物館動物園駅、1.4kmのトンネル出口手前に寛永寺坂駅が設けられていた。
前者は京成本線の開通に合わせて東京帝室博物館、東京科學博物館、恩賜上野動物園、東京音樂學校、東京美術學校などの最寄り駅として開業したが、老朽化や乗降客の減少が原因で、平成9年に営業を休止した。

この駅を有名にしたのは、中川俊二氏の設計による、あたかも国会議事堂の中央部分のような西洋様式の外観を持った地上出入口であろう。
地下ホームへ降りていく階段の壁面には、東京芸術大学の学生が描いたとされるペンギンと象の壁画が掲げられ、木製の改札も最後まで残されて、昭和初期のレトロな雰囲気を色濃く感じる佇まいだった。
 
 
僕が初めて成田空港へ向かった30年前は、博物館動物園駅がまだ健在で、地下を進む「スカイライナー」の窓が一瞬明るくなって、何事かと驚いたものだった。
明るいと言っても、現役の駅と察するほどの光度ではなく、ぼんやりと薄暗い照明に照らし出された壁面は、煤でまだらになったコンクリートが剥き出しのままで、ホームに人影もなく、保線に使用する倉庫なのかと思った程である。
 
寛永寺坂駅も京成本線の開業と同時に設置されたが、太平洋戦争の終戦前後に車両の性能や保線が劣化したため、地上への急勾配にある同駅での発着が困難となったため、昭和22年に廃止されている。
 
平成27年の「スカイライナー」の車窓は、漆黒の闇に塗り潰されて、寛永寺坂駅はもとより、博物館動物園駅が映し出されることはない。
 
 
大きく様変わりしていて目を見張らされたのは、日暮里駅である。
トンネルを抜けると、JR東北本線、山手線、京浜東北線の総計12本もの線路上を斜めに横切り、滑り込んだホームは、成田空港線の開業に合わせて改良工事が施され、黒ずんだ印象の京成上野駅や地下トンネルとは対照的な、眩い白さに一新していた。

上り線と下り線で共有していた島式の1階ホームを上り線専用にして、下り線は新設の3階へ移設、線路を挟んで左右に「スカイライナー」用の1番線と、一般列車用の2番線を有する相対式2面1線ホームを持った3層構造の駅に生まれ変わったのである。
 

僕が乗った車両は、京成上野駅を発車した時点で数名が席を占めている程度であったが、日暮里駅では、大きなトランクを転がす外国人客がどっと乗り込んできて、車内がいっぺんに賑やかになった。
海外からの渡航客は、「スカイライナー」よりも、特急料金が不要の列車を選ぶ人が少なくないとも聞いていたので、なかなかの人気ぶりではないかと思う。
 


車内で飛び交う会話は日本語が殆んど聞かれず、客室入口の上部に設けられた電光掲示板にも日本語と共に英語、中国語、韓国語の案内が併記されて、他の首都圏発着の列車とは異なる雰囲気である。
さすが国際空港へのアクセス特急と感じ入ってしまうのだが、この列車に乗り合わせた乗客の中で、飛行機を利用しないのは僕くらいなのだろうと、少しばかり肩身が狭くもある。
 
 
日暮里から京成高砂までは、ぎっしりと密集する人家や町工場の屋根を見渡しながら、高架線を走ることになる。
曲がっていく先頭車両が斜め前に見える程のきついカーブが続くため、なかなか速度を上げることが出来ない「スカイライナー」は、うずうずと身を持て余しているかのようである。
それも貫禄のうちで、新幹線ですら都内では速度を落としているのだ。
隅田川、荒川、中川、江戸川と大きな河川を次々と渡っていく車窓はのびやかで、東京近郊の鉄道の中では、最も見晴らしが良いのではないだろうか。
 
40年前もこのような光景だったっけ、と記憶を探るほど、僕にとっては新鮮な車窓だった。
 
 
京成高砂から、京成成田空港線に分岐する。
ここから印旛日本医大駅までは、北総鉄道として、昭和54年から平成12年にかけて少しずつ延伸されてきた区間である。
 
北総鉄道は、都営浅草線と京成電鉄を通じて京浜急行と乗り入れ運転を行っているため、昭和60年代から平成10年代まで品川区に住んでいた僕は、京急品川駅に出入りする直通列車の行先標示が「千葉ニュータウン中央」「印西牧の原」「印旛日本医大」と更新されていくたびに、また線路を延ばしたのか、いったい何処まで行くのだろう、と思っていたのだが、まさか成田空港に繋がるとは予想もしていなかった。



京成本線に比べれば線形は遥かに良く、見違えるように線路の曲線が消えて、「スカイライナー」は、手綱を緩められた駿馬のように嬉々としてぐいぐい速度を上げ始めるが、最高速度は時速130kmに設定されているため、まだ本領発揮ではない。

線路の敷地は広く確保され、平行する道路との間には雑草が生い繁る空き地が広がって、それまでの下町らしく建て込んだ風景が嘘のようである。
首都圏にも、これほどの土地が余っていたのか、と驚かされる。
 
 
千葉ニュータウン中央駅から成田空港駅までの51.4kmの区間には、成田空港に劣らず紆余曲折の歴史が刻まれている。
 
昭和45年、全国新幹線鉄道整備法が成立し、翌年に「建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画」として東北新幹線、上越新幹線と並んで成田新幹線の整備が決定した。
東京から遠距離というハンディを解消する打開策として、成田新幹線は、新東京国際空港計画と切り離すことが出来ない一体の構想であった。
 


起点は、現在京葉線のホームが設けられている鍛冶橋通りの地下で、東京駅と有楽町のほぼ中間に位置する。
京葉線地下トンネルと同じルートで越中島に抜け、地上に出た後は地下鉄東西線と平行して葛西、浦安、市川を通過、船橋市内は長さ1.8kmのトンネルでくぐり抜けて、東西線原木中山駅付近で北東に針路を変え、新京成電鉄線三咲駅付近を通り、北総鉄道小室駅と千葉ニュータウン中央駅の中間で北総線に合流、その先は丘陵地帯を堀割で進み、印旛沼を高架橋で越えて成田空港に至るという経路であった。
東京駅から新宿駅へ延伸する構想もあり、東京駅のホームが鍛冶橋通りの地下とされたのも、西への延伸が行いやすい立地を選んだためと言われている。
 
 
途中駅は千葉ニュータウン駅だけで、最高速度は時速250km、東京と成田空港の間を速達型列車が最速30分、千葉ニュータウンに停車する列車は35分で運転するという予定であった。
 
折しも、成田空港建設をめぐる状況がこじれて、地域住民や過激派が政府と衝突を繰り返していた時期に当たる。
例えば浦安地区では、地下鉄東西線と50mの間隔で平行し、幅が11.5m、高さ5mから9mの高架で住宅地を貫通するという計画であったため、沿線住民、特に東西線と成田新幹線に挟まれた居住者の生活がどうなるのか、せめて埋立地を通す計画にならないか、などという声が上がったものの、地域の説明会を開催した役人は、コースの変更はあり得ないの一点張であったという。
 
 
これでは成田空港と同じ結果になることは火を見るより明らかで、政府には学習能力がないのかと呆れてしまうのだが、案の定、地元議会の議員からは、
 
「地元に一言の話もなく、一方的に決定した本計画は絶対に承服できない。コースの変更の話し合い以外聞く耳を持たない」
 
と激しい非難の声が挙がり、江戸川区議会では新幹線反対の決議すら採択され、市川、船橋でも反対運動が勃発、空港建設反対同盟までが反対運動に加わったのである。
当時の東京都知事も計画の凍結を主張し、千葉県知事も、
 
「成田新幹線に絶対に反対ではないが、現在の計画には賛成できない」
 
と難色を示したため、満足に用地買収も行えないまま、成田新幹線計画は暗礁に乗り上げる。

オイルショックも影響して、昭和58年、ついに成田新幹線計画は中止に追い込まれる。
昭和61年には政府が成田新幹線計画を正式に断念し、運輸省が告示した新幹線の中で唯一の未成線となった。
 
速くて便利という利用者側の論理だけでは、交通機関は成り立たないのである。
 
 
それでも、昭和46年から58年までは工事が細々と進められ、各地にその爪痕を残している。
東京駅の京葉線ホームへ向かうコンコースや、越中島までの京葉線の地下トンネルも、成田新幹線として設計されたものが踏襲され、東西線南行徳駅から行徳駅にかけて線路の北側にある遊歩道も、成田新幹線の用地である。
最大の遺構は、京成成田空港線千葉ニュータウン中央駅近辺で見られる。
何のために、と思ってしまう幅広の堀割と、千葉ニュータウン中央から成田空港までの新線の敷地である。
 
先行工事だけで900億円以上が投じられ、僅かながら建設用地の買収が行われたが、実際に着工したのは、東京駅の一部、成田駅から2kmほど離れた成田市土屋地区から成田空港までの8.7kmの路盤・橋梁・トンネルなどであった。
 

昭和57年、新東京国際空港アクセス関連高速鉄道調査委員会が、運輸省に、成田新幹線に代わる3つの代替案を答申した。

A案は東京-新砂町(新木場付近)-西船橋-新鎌ヶ谷-小室-印旛松虫(印旛日本医大付近)-成田空港という成田新幹線ルートの再整備。
B案は上野-高砂-新鎌ヶ谷-小室-印旛松虫-成田空港という、北総鉄道を延伸し京成成田空港線として開業するルート。
C案は東京-錦糸町-千葉-佐倉-成田-成田空港という、国鉄成田線を分岐して新東京国際空港に直結するルート。
 
3案と別に、京成電鉄が、成田新幹線よりも前に、「新空港線」として成田から駒井野信号場を経て成田空港駅までの延伸を計画していたものの、空港公団が同社の空港ターミナル乗り入れを認可しなかったという経緯がある。
 
 
B案は、今、僕が「スカイライナー」で走っている京成成田空港線であり、平成22年7月に日の目を浴び、高速列車の投入と相まって、大幅な時間短縮を果たしたのである。

それより先行したのはC案で、昭和62年に、当時の石原慎太郎運輸大臣が「成田新幹線に使用予定だった設備と用地を活用し、京成線とJR線を成田空港に乗り入れさせる上下分離方式案」を指示することで、翌年に成田空港高速鉄道が設立され、JRが成田線・空港支線を、京成電鉄が京成本線を延伸して乗り入れる形で、平成3年に実現する。
JRは「成田エクスプレス」の運行を開始、京成「スカイライナー」も、ようやく空港ターミナルビルに姿を見せることとなった。


印旛日本医大駅を過ぎた「スカイライナー」は、成田新幹線の後継者に相応しく、いよいよ時速160kmに速度を上げる。
車内に速度計がある訳でもなく、車窓が広々として揺れも少ないことから、我が国の在来線で最高速度を出しているという実感は乏しい。

同じく時速160km運転を行っていた北越急行線の特急「はくたか」では、東頸城山地と魚沼山地を貫く複数の長大トンネルの中で、甲高い風切り音が車内に響き、風圧の変化で耳がツン、と痛くなったものだったが、「スカイライナー」の走りは悠然として揺るぎもしない。
この区間は、高崎駅構内で上越新幹線と北陸新幹線が交差するポイントで使われているものと同じ分岐器が使用されており、線路の北側に連なる広い空き地が成田新幹線の敷地であったことも含めて、「スカイライナー」は新幹線に匹敵する施設の恩恵を享受していることになる。
車体は新幹線よりも小振りであるけれども、軌間も新幹線と同じ1435mmの標準軌である。
 
計画は実らなかったものの、こうして高速の空港アクセス列車が跡地を利用しているのだから、成田新幹線も、もって瞑すべしであろう。
 
 
実感に乏しい高速走行のまま、平坦な下総台地を走り込むと、前方に印旛沼が煌びやかな水面を覗かせる。
もともとは利根川水系に連なる大きな沼であったが、干拓によって北印旛沼と西印旛沼に分かれ、面積は半分以下に減少していると言われている。
印旛沼の水は、北印旛沼から長門川を下って利根川へ合流しているのだが、印旛沼や利根川の増水により逆流が起き、西印旛沼から新川、花見川を伝って東京湾へ排水されることもあり、ここの地形の平坦さが実感できる現象である。
 
琵琶湖と霞ヶ浦に次ぐ、我が国で3番目に多い75万人もの流域人口を抱えているためなのか、水質汚染の指標となる化学的酸素要求量(COD)が年平均10mg/l 前後と、全国でも最悪レベルであるのだが、「スカイライナー」が長大な橋梁で横断していく北印旛沼は、どこまでも青々と見えた。
付近には広大な湿地や里山があり、野鳥の宝庫となっているため、京成成田空港線は可能な限りの環境保全措置を実施し、景観に配慮した構造で建設された。
 
 
成田新幹線の代替計画において、印旛日本医大駅付近のことを印旛松虫と呼んでいたのは、奈良時代からの古刹である松虫寺が由縁であろうか。
癩を患った聖武天皇の皇女・松虫姫が、下総国に効験あらたかな薬師如来が鎮座しているとの夢を見て東国に下り、下総国印旛郡萩原郷の薬師堂で平癒を祈願し全快したことから、天皇の命を受けた行基がこの地に寺を開いたと伝えられている。
 
印旛沼の東側に位置する八代地区には、成田新幹線の車両基地が置かれる予定であった。
成田市土屋地区付近では、成田新幹線工事の凍結前に空港に繋がる高架や地下トンネルが完成し、京成成田空港線が開業するまでは、野ざらしになったコンクリート製の無骨な高架が、未成の新幹線を偲ぶ遺構として知られていた。
 
 
成田湯川駅から空港ターミナルまでは、平成3年から使われている区間で、JR成田線空港支線が単線で合流、京成電鉄成田空港線も単線になり、規格の異なる線路が2本並ぶ。
京成本線の線路も途中から合流してくる様は、成田空港の鉄道アクセスの歩みが凝縮されているとも言える区間である。
 
運が良ければJRの「成田エクスプレス」と並走する場面が見られると聞いていたが、僕の乗る「スカイライナー」は他の列車と邂逅することなく、地下トンネルの暗闇の中で、ふっと肩の力を抜くように速度を落とし、照明が眩い空港第2ターミナル駅に滑り込んだ。
更に1km先の成田空港駅で、在来線最速列車の旅は終わりを告げる。
 
「スカイライナー」を使えば日暮里駅から36分であり、成田新幹線の計画と比べても5分程度しか差がない。
様々な紆余曲折はあったものの、これで充分じゃないか、と思う。
 
 
地下ホームからエスカレーターで地上に上がると、改札口のコンコースに、保安検査場と同様のレーンが横に並んでいる。
一瞬、30年以上前の検問所の記憶が脳裏に蘇ってたじろいだが、旧成田空港駅の素っ気ない検問所とは異なる硝子張りの開放的な雰囲気で、係員の姿も見当たらない。
成田空港の開港以来、年間100億円近い費用を費やして続けられてきた検問は、平成27年3月30日の正午をもって、全面的に廃止されたのである。

検問所の跡を、遮られることなく急ぎ足で歩を運んでいく利用客の姿に、時の流れが実感されて、僕は呆然と佇立した。
 
 
時代が昭和から平成に変わり、二期工事を進めたい政府と、反対運動の風化を懸念する反対同盟の間で話し合いの機運が生まれ、「成田空港問題シンポジウム」と「成田空港問題円卓会議」が開催された。
「ボタンのかけ違い」と称して政府と反対派のすれ違いが繰り返されてきた経緯について議論され、運輸省と空港公団から、それぞれ謝罪の言葉が述べられた。
平成7年に、当時の首相も反対同盟に謝罪の意を表し、政府・官僚・空港公団が正式に過去の過ちを認めたのである。

それから空港の検問が廃止されるまで、更に20年もの歳月を要したけれども、成田空港を取り巻く環境が大きく改善しつつあることを実感する、コンコースの情景だった。
 
 
高校生だった僕が初代AE車両の「スカイライナー」で成田空港を訪れた時は、東京駅行きのリムジンバスで折り返した記憶がある。
厳戒態勢の当時でも、空港から出ていくバスや列車に検問は無縁だった。

今回は、未成の新幹線計画を偲んだ訳ではないけれど、新宿直通のリムジンバスを試乗することにした。
第1ターミナルビルの外に出てみれば、どこか洗練さに欠けてまだ発展途上なのだなと思わせられた30年前とは佇まいが大きく変わっていて、一国の玄関に相応しい威厳と迫力が備わり、まるで別の空港に来ているかのようである。
成田空港も進化したということなのだろう。
周りを取り囲む連絡道路を、各方面に向かうリムジンバスが引きも切らずに発車していく。
 
第2・第3ターミナルを先に回って来た新宿行きリムジンバスは、第1ターミナルで瞬く間に席が埋まった。
通路側の座席で身を縮めて過ごす羽目になった僕の胸には、10年前に高速バスで三里塚を訪れた時と同様の感慨が湧いてきた。
 
 
「難産の子は健やかに育つ」との願い通り、成田空港は、我が国の国力の充実と比例して、世界屈指の国際旅客取扱量と世界一の国際貨物取扱量を誇る一大交通拠点になった。
平成14年まで4000mのA滑走路1本だけしかなかったことなど、数々のハンディを背負いながらも、世界各地から大型機が飛来し、発着枠の配分を待つ航空会社が引きも切らない状態が続いた。
太平洋路線とアジア路線の結節点として、成田をハブ空港にする海外の航空会社も現れ、成田は国際線の拠点として、アジアで中心的な役割を果たしたのである。
 
しかし、近隣諸国を中心に超大型空港の整備が進む昨今の趨勢の中で、40年以上が経過しても基本計画の完遂すら達成できていない成田空港の国際的な地位は、相対的に低下していく。
今でも成田空港は我が国第1位の国際空港であり、LCCの発達と増大する訪日客の後押しもあって、取扱量は増加傾向を維持しているものの、平成28年の国際線旅客取扱量は、世界で18位に下がっている。
 
歴史の「if」を空想することは意味がないと言われるけれども、それでも、経済的に困難な状況にある今の日本に生きる者としては、どうしても夢想したくなってしまう。
もしも、政府と地域住民が早期に和解し、成田空港が構想通りの巨大な規模で開港していたならば、また、成田新幹線が予定通りに開通し、開港当初から東京と成田空港が30分で結ばれていたならば、僕らの国の現状は、大きく変わっていたのではないだろうか。
悔やむに悔やみきれない「ボタンのかけ違い」であったと思う。
 

新宿行きリムジンバスは、黄昏をついて、東関東道から首都高速湾岸線をひた走った。

お台場JCTからレインボーブリッジを渡って都心環状線に向かうのかと思いきや、そのまま湾岸線を直進したので、驚いて思わず腰を浮かしかけた。
十三号地の海底トンネルを抜け、大井JCTから中央環状線山手トンネルに潜り込んだ時には、大変な大回りをするものだと目を見張った。
ところが、渋滞に巻き込まれることもなく、すっかり暮れなずんだ新宿駅西口には予想よりも早めに到着したことで、なるほど、と納得した。
鉄道ばかりではなく、リムジンバスも進化したのだな、と思う。
 
それでも、バスで走れば成田空港はやっぱり遠く、「スカイライナー」の快適な旅が懐かしく思い出された。
人間とは、速さに憧れる生き物なのである。
 

 
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