2014年02月16日

大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)

日陰では寒さに震え、日向では汗をかきながら
・・・JR・万葉まほろば(桜井)線・巻向駅の東南地域に点在する古社&古墳を巡ってきた。
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)


大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)
JR巻向駅
この日、「江包・大西のお綱祭り」があるとかで駅周辺は混雑していた。

ホーム北端の線路の西側にある空地。 これまでの発掘調査(162次・166次)で中軸線を一にする建物群(庄内3式期、3世紀中頃)が現出した処で庄内式期の中枢地域。
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)


この纏向の地、これまでの発掘調査から縄文時代後期頃に東の段丘部からの土石流により弥生時代前期には農耕に適さない荒地であった。2C末~3C初頭(弥生時代終末期~古墳時代初頭)において纏向周辺にあった弥生集落は衰退・廃絶するのと入れ替わるように、それまで集落の無かった纏向地域に突如として径1kmもの規模をもつ巨大な「マチ」が出現する。庄内0式期(3C初頭)、それまでの農耕的色彩の強い弥生集落のような自然発生的なものではなく、極めて強い政治的な意図のもとに造られた「マチ」・・・。

江包・大西のお綱祭り(素盞鳴神社内説明板)
初瀬川の南北の、江包と大西地区の間で行われる「お綱はんの結婚式」。上流から流れてきた二人の神様を、江包は素盞鳴尊、大西は稲田姫を助け、二人が正月に結婚式をあげたことに由来するという。
両地区で新藁を持ち寄り、江包の春日神社で男綱を、大西の市杵島神社で女綱を作り、素盞鳴神社で入舟の儀式を行うものである。古くからの田遊び祭りの一種で、豊作をあらかじめ祝う儀式。旧暦正月10日に行われていたが、現在は2月11日となった。
ということなのだが、要は、奈良県桜井市の大西と江包で行われる豊作と子授け祈願の行事である。
①江包が男綱、大西が女綱を作る。
②次いで御綱かけが行われ、女綱が市杵島神社を出発して区内を巡りながら江包の素盞鳴神社にむかう。
③女綱が素盞鳴神社に着くと、男綱も素盞鳴神社に向かう。④男綱が素盞鳴神社に着くと、女綱と合体させて鳥居そばの榎の木につるして、双方が手打ちをして式を行う。(※ 重要無形民俗文化財。解説は指定当時のものによる。)
豊作と子孫繁栄を祈る祭り。男綱・女綱の大綱をかつぎ、神社で合体し「綱の結婚式」を行う。女綱の方が先に素戔鳴神社に到着する。仲人役がまだ泥相撲をとっている男綱を呼び使いにいくが、7度半行き来あってやっと男綱は動き出し、厳かに入舟の儀式が始まる。

大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)
駅前通りから「上ツ道」を北に向かい、一昨日(2月9日)に行われた発掘調査地を目指す。
途中、道の右に穴師大明神の石碑と鳥居があった。この鳥居道を東進すれば相撲神社・兵主神社に辿り着くのだが、その前に・・・







纒向遺跡第180次調査地
駅から徒歩5分ほど、集落内の建物で囲まれた約205㎡の狭いところ。
これまでに検出されたJR線の西側の建物遺構と推定中軸線を同じくする建物の柱穴がでてきたそうだが、この日は休日なので、現場はブルーシートで覆われている。
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)


一旦、上ツ道まで戻り駅前通りを過ぎ引続き南下、国道169号の高架下を抜けると、一面の田圃の中に目指す古墳が見える。
ここからの道は、箸墓と三輪山がランドマークの機能を果たしてくれ、位置確認に大いに助かった。

大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)

巻野内石塚古墳(古墳時代前期(3世紀末?)の前方後円墳。全長約60m・後円部径約40m・前方部長20m) ・・・右は箸墓古墳。左奥にも古墳が見える。
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)

箸中支群の最北端に位置する古墳。
径約40mの後期の円墳とする考えが一般的だったが、墳丘北東側の果樹畑部分が北側へ不自然な張り出しを持つことから、前方後円墳になる可能性が指摘されていた(北東部にある畦道の形状からも推測できる?)
2002年の桜井市教育委員会による測量調査で、前方部が北東側に取り付く全長約60mの前方後円墳であることが判明。
また、墳丘の築造規格が前方部が短い「纒向型」でホケノ山古墳の3分の2の大きさであることが判明。
ホケノ山古墳を盟主として、同時期か少し後に築かれたもの?
南の道沿いの後円部墳丘裾の石垣は転用された葺石?
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)


案内表示版に、以下のような記載
「纏向地域から、南の茅原の地域にかけての丘陵部には、有名な珠城山古墳群や箸墓古墳・茅原大墓古墳があるが、この他に20数基の中・小規模な古墳が散在している。 数基の方墳があるものの、多くは古墳時代後期の円墳と見られ、中には前方後円形を呈するものもあるようだ。 巻野内石塚古墳もこれらの古墳群中にあり、調査が行われていないため詳細は不明だが、後円部径35m程度の北面する前方後円墳のようである。」
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)


南の道を東に進みT字路を右・南に進む。道の両側に墳丘。西側は石田古墳(円墳?。径約15m)、東側はサシコマ古墳(円墳。径約13m)。この古墳のスグ南に小川塚西古墳(方墳。一辺約41m)、方墳ということなのだが、2段目・3段目の墳丘は円状に改変されていた。すぐ東に小川塚東古墳(円墳。径約34m)。

再び北上。春日神社、垂仁天皇の纏向珠城宮跡伝承地の辺りを経て東進し穴師の集落に入り、山の辺の道を通って兵主神社へ向かう。

大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)

大和の集落は、長屋門、大屋根などの立派な屋敷が多い。 古来よりの土地の豊かさを思う。


珠城山(タマキヤマ)古墳群
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)


三輪山の北にある巻向山の別峰・穴師山の支脈が西に延びて平坦地に接する丘陵端に、東から1・2・3号墳の順に築造されている。すぐ北の尾根先にある渋谷向山古墳(前方後円墳、全長300m。景行天皇の山邊道上陵に治定されている。)とは指呼の距離。
6世紀代の古墳が直径10~30m級の規模のものが大半を占める中で、珠城山古墳群の規模は大きいものといえる。
また、前方後円墳3基が密集して築かれることは珍しく、豪華な副葬品が出土していることなども併せて考えると、当時の政権内においても重要な役割を果たしていた人物が埋葬されていると思われる。
さらに、この時期は、前方後円墳が築造される最後の時期であり、古墳時代の終焉を考える意味でも重要な古墳群である。
なお、これまで5度にわたる調査が実施されており、出土遺物は奈良国立博物館に収蔵されているそうな・・・。
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)


墳丘にある案内表示によれば以下のとおり、
珠城山古墳群は古墳時代後期(6世紀)に築造された前方後円墳3基からなる古墳群で、発掘が行われた1・3号墳からは、環頭太刀や金銅装馬具などの豪華な副葬品が出土しています。 2→1→3号墳の順に築かれたと考えられ、この地域を支配していた豪族が代々築いたものだと思われます。 1950年頃から行われた度重なる土砂採取により、3号墳の大部分は失われましたが、その他の部分は保存され、1978年2月に国の史跡に指定されました。 その後、墳丘調査が行われ、2・3号墳間から円筒埴輪列や盾持人物埴輪が出土するなど多くの成果がありました。 現在、1号墳の墳丘や横穴式石室、2号墳の墳丘が見学できるようになっています。
1号墳 全長50~55m、後円部径25m前後、前方部幅27m前後。埋葬施設は横穴式石室(後円部)。築造時期は6C中~後半。
2号墳 全長80~85m、後円部径40m前後、前方部幅42m前後。埋葬施設は不明。築造時期は不明(6C代か)
3号墳 全長55~60m、後円部径27m前後、前方部幅25~30m。埋葬施設は横穴式石室2基(後円部及び前方部)。築造時期は6C後半。
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)

大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)

大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)南に開口した1号墳の石室。花崗岩の自然石を積み上げた小さな片袖式。 2体分の遺骨や玻璃製の多数の玉、などが検出されたそうな。

玄室の中央に残っていた凝灰岩製の組合わせ式石棺は、橿原考古学研究所の前庭に置かれている。後円部上にお稲荷さんの小さな祠が祀られている。
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)














前方部は削平されており後円部から見ると分かりづらいが、墳丘下の南の道路からは墳丘全体のイメージが容易に掴める。
なお、この道路からも石室の開口部が見える。



















2号墳の遺物や埋葬施設は不明。
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)

大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)

3号墳は、前方部の基底端を残してほぼ消滅。
後円部の石室は両袖式で、家形石棺組合せ式石棺
遺物は、馬具類のほか、挂甲小札・太刀・須恵器・土師器など。この中で、馬具の鏡板(かがみいた)(轡(くつわ)の一部)と杏葉(ぎょうよう)(馬を装飾するもの)は特筆すべきもの。  両方とも鉄地金銅張りの台板に透彫りの文様板を重ねたもので、鏡板には忍冬唐草文、杏葉には左右に向かい合う鳳凰の文様が施されているなど繊細な彫金を施しており、技術の精巧さがうかがえる。
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)


墳丘上から見た穴師の集落・・・遠景は三輪山
大和の国・纏向を歩く①(JR巻向駅から巻野内・穴師の集落へ)


この後、兵主神社に向かうのだが、穴師の集落内で道に迷い、時間のロス。
この付近の道端、ミカンなどの無人販売が多数あり。

 ・・・ この続きは「大和の国・纏向を歩く②」

下のバナー「考古学・原始・古墳時代」をクリックしてね
・・・ 「歴史」のブログがいっ~ぱい見れるよ (^J^)
にほんブログ村 歴史ブログ 考古学・原始・古墳時代へ
にほんブログ村

同じカテゴリー(古代)の記事画像
大和の国を歩く ~ 本薬師寺
飛鳥へ ~ 都塚古墳を訪ねる
奈良・春日山原始林を歩く
大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ
大和国・平群の谷を歩く~古代の祭祀遺構を訪ねて(その3)
大和国・平群の谷を歩く~古代の祭祀遺構を訪ねて(その2)
同じカテゴリー(古代)の記事
 大和の国を歩く ~ 本薬師寺 (2014-10-01 21:09)
 飛鳥へ ~ 都塚古墳を訪ねる (2014-08-17 20:10)
 奈良・春日山原始林を歩く (2014-08-01 03:51)
 大和の国を訪ねる(2)・・・多神社・多遺跡、新沢千塚古墳群、室大墓へ (2014-07-20 14:42)
 大和国・平群の谷を歩く~古代の祭祀遺構を訪ねて(その3) (2014-06-28 04:22)
 大和国・平群の谷を歩く~古代の祭祀遺構を訪ねて(その2) (2014-06-26 16:18)

Posted by あきさん at 07:11│Comments(0)古代散策古墳奈良歴史
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。