さてさて…
内大臣伊周(ないだいじんこれちか)への内覧宣旨(ないらんせんじ)について…
伊周の外戚である、左少弁(さしょうべん)の高階信順(たかしなのさねのり)より
『病間』を『病替』に書き換える様、宣旨作成の責任者である、大外記中原致時(だいげきなかはらのむねとき)に指示が下ったのですが…
この辺りの事情は、『黒光る君』こと小野宮実資(おののみやさねすけ)の日記『小右記』(しょうゆうき)に克明に記されています
信順の指示の裏には…
『中関白家(なかのかんぱくけ)の意向、則ち伊周様の内覧を、関白道隆(かんぱくみちたか)様、病中の限定ではなく、病の平癒に拘わらず、常任となる様に忖度せよ
『致時よ、わかっているな』
という、はっきり言えば、中関白家の威光をカサに着た、パワハラ的な要請であったのです
こういう場合、官人としては、『長い物には巻かれよ』的な立ち回りをした方が、無難であったのかもしれませんが
流石に、太政官の事務局である外記局(げききょく)のトップである致時は、信順の圧力には屈しませんでした
信順の要請に対して、致時は…
➀『関白病間』は一条帝(いちじょうてい)仰せである
②今回の宣旨については、蔵人頭(くろうどのとう)の源俊賢(みなもとのとしかた)殿より指示を受けて作成したものである
③したがって、宣旨書き換えを求めるならば、私に作成の指示を行った俊賢殿に話して頂きたい
等と組織運営のルールを盾にして、信順の要求を巧みに拒否したのです
信順にしても、今回の改竄要求は、ルール違反どころか、帝の御心を勝手に歪曲することになるのを、十分認識していたと思われます
このうえ、蔵人頭の俊賢に改竄要請等をすれば、高階一族の暗躍が帝の聴聞に達することは必須であり、信順は改竄の話については
『無かったことにして欲しい』と伝え、引き下がったのです
ところが、信順達、高階一族は、尚も伊周への恒久的な内覧宣旨発令を諦めず、今度は何と
一条帝に対して、『伊周に関白就任の詔(みことのり)を下す様に』と直接奏上するという、暴挙に出たのです
『光る君へ』では、病が進み、錯乱状態になっていた道隆が、帝のおわす玉座の御簾(みす)をめくりあげて
『伊周を関白に~』と実力行使に出るシーンが描かかれていましたが、高階一族の奏請についても、強引さが否めず
中関白家の外戚であっても、一介の中級官人に過ぎない、彼等の思い上がりと焦りによる、暴走と言っても過言ではないですね
当然ながら、高階一族の強引極まる奏請は、一条の心証を著しく害させたことは、言うまでもなく…
一条は彼等の奏請を拒否したのです
関白である道隆の病重篤化による、政務の停滞を懸念した一条は、当座の措置として、『関白病間』という限定条件で伊周の内覧
を認めており、中関白家側も…
『先ずは内覧になったという、既成事実を得ることが最優先』という判断のもと、両者の思惑は一致していました
しかし、伊周外戚の高階家には、道隆の病状が好転又は悪化のよる死亡にも拘わらず、伊周の内覧が停止される様な宣旨内容に
強い危機感を抱いており(中関白家も同じ気持ちだったと言えます)、それ故に宣旨改竄と一条への強引な奏上を行ったのです
出来るだけ、中関白家の意向を加味しながら、一条は当面の政治的空白を埋める方法を摸索していたのですが
自身の意を全く意に介さない高階一族、更にはその背後にいる中関白家に対する、怒りと不信感を拭えなかったと思われます
それ故に、一条は道隆に万一のことがあった場合の選択肢から、伊周の内覧続投を外し、母の東三条院詮子(ひがしさんじょういんせんし)の意向でもあった、右大臣道兼(うだいじんみちかね)への関白継承へと傾いていたのかもしれません
こうして、宣旨改竄の一件は未遂に終わったのですが、この一か月後の四月に、伊周は…
『自分に随身(ずいしん)を賜らんことを』を一条に奏請したのです
随身とは、帝や上皇、摂政関白が外出する際に、警護を務める近衛府(このえふ)の官人のことであり、本来は関白に附属される
随身を(内覧である)自分にも賜りたい』と伊周は望んだのです
伊周の奏上を聴いた一条は、ここでも蔵人頭の俊賢と協議のうえ、『関白道隆の随身の数を増やす』という内容の宣旨を下すことを指示したのですが…
この宣旨を聞いた伊周は、血相を変えて帝の御前に参入したのです
伊周は、『自分が奏請したのは、自身に随身を賜うことであって、関白の随身を増やすことではない』と抗議したのですが
一条もその言い分を認め、改めて俊賢に対して
『(関白でない)者に随身を賜った先例があれば、内大臣伊周に随身を賜う宣旨を下す様に』と命を下したのです
命を承った俊賢は、病床の道隆を訪ねて意向を聞いた所、最早再起覚束ない状況になっていた道隆は…
➀(関白に准じる形で)随身を賜る位なら、いっそのこと、随身のことと一緒に、伊周を関白することを奏上すべきだ
②帝のお許しがあれば、随身と関白任命の宣旨を一緒に下して頂きたい
等と、道隆は最後の望みを賭けて、伊周への関白宣下を奏請したのです
俊賢は直ちに、道隆の要請を一条に復命したのですが
一条の答えは、『随身を賜う宣旨は下すが、関白宣旨は下さないであり、その表情は『気色不快』に満ちていたとされています
伊周からの随身の要求を『自身を関白にせよ』という要求であると察した一条は、一度は道隆への随身増員という形にすり替えて拒否したのですが、伊周に追求されたことで、『先例があれば伊周に随身を賜う様に』という許可を与えたのです
因みに、(摂関でない者への)随身について、伊周は自分で調べた先例を示したみたいですが、俊賢から経緯を聞かされていた実資が調べた所
『伊周が主張する先例はなかった』として、彼の捏造ではないかと疑義を呈しています
但し、結局、一条は伊周の求め通り、内覧内大臣の彼に随身を賜る宣旨を出したのですが…
ドサクサ紛れにあわ良くば…と中関白家が目論んだ、伊周への関白宣下は遂に下されることはなかったのです
今や、道隆の寿命は尽きようとしており、彼の生前に、伊周に関白を継承させるという望みは
完全に潰えてしまったのです
本日はここまでに致します