さてさて…
正暦(しょうりゃく)元年(995)に入り、重度の飲水病であった、関白道隆(かんぱくみちたか)の病状が悪化
最早、関白の職務を通常に果たすことが難しくなっていました
数年前から体調異変を自覚していた道隆は、自分が元気なうちに、嫡男伊周(これちか)への政権移譲準備を進めていたのですが…
前年、伊周を内大臣に昇進させた段階で、いよいよ危急の局面を迎えてしまったのです
恐らく、道隆が頭に描いていた、理想的な政権移譲のプランは
自分が現職の関白でいる間に、伊周に関白を譲るという禅譲形式でした
自身が父兼家(かねいえ)に禅譲を受けたという経緯もあり、必然的に道隆も同じ方法でと考えていたと思われますが
健康状態が悪化しつつありながらも、最後まで現職の摂政関白を務め切った、父と比べて…
既に、政務に支障を生じさせつつあった自分が、強引に関白職を伊周に譲ることは、流石に難しいと思ったかもしれません
内大臣とは言え、伊周はまだ二十二歳に過ぎず、加えて彼の上席には、右大臣道兼(みちかね)がいる以上…
自分亡き後、関白となった伊周が、道兼と互角にわたり合うのは、難しいと考えるのは、首肯されますね
もし仮に、伊周が関白となった場合
➀関白専任
②関白と内大臣を兼務する
上記二つの選択肢があったですが、何れを選択するにせよ、関白になった時点で、伊周は太政官の意思決定の場である
陣定(じんのさだめ)に参加することが出来なくなることは、明らかでした
因みに、摂政となった兼家は、それまで務めていた右大臣を辞職のうえ、それまで前例がなかった、摂政専任での政権運営の道を開きました
但し、政権運営を円滑に行うには、陣定に出席できない自分(関白)に代わり、自分の意向通り陣定を主導し得る人物を、公卿の中から選ぶ必要があり、実際に兼家が指名したのは、筆頭の大納言(だいなごん)であった異母弟為光(ためみつ)でした
右大臣を兼任したまま摂政になっても、太政官席次では第三位に過ぎず、加えて、上席の太政大臣(頼忠)と左大臣(源雅信)が
依然として健在ということもあり、彼等(時に雅信)に太政官の運営執行の権を握られることを回避すべく、兼家は自分の後任の
右大臣に為光を宛てたのです
本来ならば、嫡男の道隆が、陣定に参加出来る議政官(ぎせいかん)であったら良かったのですが、当時道隆は公卿であっても
非参議(ひさんぎ)則ち『散位』(さんに)に過ぎず、寧ろ彼を含め、息子達をどんどん出世させなければならない状況でした
彼等が議政官に名を連ねた段階で、兼家は道隆を大臣職に昇進させようと考えていた筈で、云わば為光はそれまでの代役的な役割で右大臣の座にあったのです
実際、永祚(えいそ)元年(989)、道隆は内大臣に昇格
彼が内大臣となり、併せて、兼家後継者の地位が確定したことで、代役たる為光の役割は終焉を告げたのです
翌年の正暦元年(990)には、道隆は兼家の譲りを受けて、関白に就任
兼家が薨去した翌同二年(991)、関白から摂政に転じていた道隆は、それまで兼帯していた内大臣を辞任したうえで
新たな除目(じもく)を主宰
➀右大臣の為光を太政大臣に
②大納言の源重信(みなもとのしげのぶ)(左大臣雅信同母弟)を右大臣に
②権大納言道兼を内大臣に
③左大臣源雅信は留任
上記の如く、太政官首脳人事を行いました
この頃から、道隆は嫡男伊周の昇進を強引に進める様になったのですが、伊周はこの年に参議(さんぎ)⇒権中納言(ごんちゅうなごん)と一気に議政官の列に加わったとは言え、未だ大臣職を務めるまでには至っていませんでした
そうなれば、事実上、太政大臣に棚上げにした叔父為光に代る、新たな太政官政務を主導する公卿を選ぶ必要があったのですが…
その最有力と目されていた、左大臣雅信は、既に道隆弟の道長を婿に迎えて、その後見となっていたのですが、流石に太政官運営を任せる訳にいきませんでした
もし、雅信に太政官運営を委ねたら、彼は婿道長の引き立てに意を用いる可能性は高く、この段階で、伊周と同じ権中納言にあった伊周との官位バランスが崩れることを、道隆は望まなかったと考えられます
事実、この翌年には、道長と伊周は共に権大納言に昇進しており、依然として両者は官職で並んでいたのですが
正暦四年(993)に、雅信が薨去したのを待っていたかの様に…
翌同五年(994)の除目で、伊周は(道長を含む)三人超で、内大臣に昇進したのです
如何に、後見としての雅信の存在が大きかったことが知悉出来ますが、岳父の死により、道長の昇進は、約二年程停滞することになります
(もっとも、上が空いていなかったことも理由ですが)
結局、道隆は、太政官筆頭である左大臣雅信に、太政官運営を任せたものの、それぞれの儀式・政務の責任者となる
上卿(しょうけい)については、他の公卿との担当分担制にする形を選択したみたいですが
中関白家(なかのかんぱくけ)から見れば、最大の政敵と目されていた、内大臣道兼の勢力伸長を警戒していたことも、背景にあると思われます
当時、道隆の政治手法に反発を抱いていた反主流派は、当時ナンバー2(左右大臣を占めていた宇多源氏の兄弟は既に老いており
脅威とはなりませんでした)であった道兼の許に結集する動きを見せており
道兼自身も、『時が来たら自分が関白になる』という野心を捨ててはいなかった筈で、その動向に、道隆は神経を尖らせていたと思われます
聊か、お話が間延びしてしまった感がありますが…
自分という後見がいない状態で、伊周が関白となった場合、右大臣である道兼に、太政官運営を委ねなければならないという
先例ルールがある以上
道隆は直ちに伊周を関白にすることを躊躇したかもしれません
自分に残された時間の中で、彼が考え付いたのは
関白ではないものの、ほぼこれと同じ権限を有する、『内覧』(ないらん)の地位を伊周に与えることであったのです
出仕が滞り、闘病中の道隆は、一条帝(いちじょうてい)に、伊周への内覧宣旨(ないらんせんじ)を奏上したのです
本日はここまでに致します