タケ海舟の歴史事件帳

タケ海舟の歴史事件帳

自称歴メンことタケ海舟が、歴史上の事件を独自の視点と勝手な思い込みで取り上げ、真相に迫ります。
大河ドラマを中心に歴史に関する話題をお届けします。

 

 

さてさて…

 

長徳(ちょうとく)元年(995)四月十日リサイクル

 

病床にあった道隆(みちたか)が、四十三歳の生涯を閉じましたえーん

 

死の七日前の同月三日、道隆は正式に関白を辞任したのですが、同日に藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ)辞任していましたNEW

 

氏長者とは、その氏全体を統率する代表者の呼称で、氏族の中で最高の官位を有する公卿が、その任に就くのが慣例でした四角オレンジ

 

なお、藤原氏長者が果たすべき、主な役目としては…キラキラ

 

➀氏社の春日大社(かすがたいしゃ)や、氏寺の興福寺(こうふくじ)の管理

 

②藤原氏出身子弟の学校である勧学院(かんがくいん)の管理

 

③藤原氏一族に与えられる、年爵(ねんしゃく)・年官(ねんかん)の推薦者の決定と奏上

 

等が挙げられます電球

 

ところで、ご存知の通り、藤原氏は、実質二代目の不比等(ふひと)子供達の代から、四家(南家・北家・式家・京家)に分立下三角

 

以降は多くの分流を発生させ、枝分かれ的に膨張を続けていました飛び出すハート

 

藤原氏それぞれの家でも、その家の当主(家督)が存在していたのですが、藤原氏全てを統率する最高位としては…

 

当然ながら、歴代の摂政関白在位者が、長者の任を兼ねていましたパー

 

因みに、この時期の氏長者の地位は…

 

伊尹(これまさ)⇒頼忠(よりただ)⇒兼通(かねみち)⇒頼忠(二度目)⇒兼家(かねいえ)⇒道隆(みちたか)

 

上記の如く、継承されていたのですが、何れも摂政関白若しくは、同職が空席となった場合は、その時点における藤原氏の最高

官職にある公卿が氏長者を務めていました拍手

 

尚、小野宮頼忠(おののみやよりただ)が、氏長者を二度務めている理由ですが…

 

第一期は、当時摂政太政大臣(せっしょうだじょうだいじん)であった伊尹薨去時点で、藤原氏最高職の右大臣であったことから、氏長者に就任したのですが、数年後に従兄弟の兼通が関白太政大臣(かんぱくだじょうだいじん)に就任したことを受けて口紅

 

氏長者の座を兼通に譲っていました耳

 

第二期は、その兼通が亡くなった後、その推挙を受けて関白左大臣(のちに太政大臣昇進)となったことによる、氏長者就任でした注意

 

この後も、同じ人物が複数回にわたり氏長者になるケースも見られるのですが、頼忠の場合は電話

 

➀前者は摂関空席時の最高官職在任者

 

②後者は関白在職者

 

それぞれの就任要件を満たしたうえでの、二度の氏長者であったのです注意

 

さて、道隆の死が時間も問題となり、関白を辞任した段階で、太政官における、最高官職を有する藤原氏の公卿は口紅

 

正二位右大臣(しょうにいうだいじん)である道兼(みちかね)でした花

 

なお、道隆嫡男の伊周(これちか)は、関白に准じた内覧(ないらん)であったものの、正位正官は、正三位内大臣(しょうさんみないだいじん)であり、位階官職何れも道兼が伊周の上座であったのです100点

 

それ故、その氏族の最高官職にある公卿が氏長者を務めるという先例からも、道隆後の氏長者あんぐり

 

道兼になることが至極当然視されていたのです炎

 

伊周が准関白たる内覧(限定の)に留められることなく正式な関白に任命されたならば左矢印

 

いくら若いとはいえ、藤原氏最高官職者として、伊周に氏長者を譲る(関白と一括)ことも出来たのですが、内大臣のままでは

 

流石に、太政官における序列が上位である道兼を超す訳にはいかなかったのでしょうダッシュ

 

但し、道隆は氏長者を辞任するにあたりその後任を指名しないままに亡くなっておりサイコロ

 

関白と共に、伊周が氏長者になる可能性を遺しておいた!ということなのかもしれませんね

 

とは言っても、氏長者は摂関就任者が兼ねることが不文律であったため、この後、伊周が関白になれば氏長者の座も必然的に

彼の手に帰することが想定されていたので…

 

道隆薨去と時を移さずに、次期関白を巡っての、叔父道兼vs伊周の抗争が火蓋を切ったのです炎

 

(火蓋を切ったとは言うものの、実際は道隆危篤時点から、水面下の駆け引きは繰り広げられてはいましたが…)

 

さて、次期関白争奪戦の行方ですが、現実的に言えば

 

中関白家(なかのかんぱくけ)期待と願望虚しく

 

貴族社会では関白は道兼の就任が順当と目されていましたOK

 

摂関就任要件は、帝の外祖父又は外伯叔父であり、この点で道兼は一条帝(いちじょうてい)の叔父で、これを満たしているのに

対して…

 

伊周は一条の従兄弟(一条生母の東三条院詮子は道隆の同母妹)で、義兄(中宮定子の同母兄)に過ぎず、この時点では摂関要件を

クリアしていなかったのですダウン

 

そういう事情にも、中関白家サイドが内覧ポストに拘った理由が窺われるのですが、現段階で伊周が逆転で関白になる為にはキラキラ

 

ひたすら、中宮定子を介した一条帝との親愛の情に頼るしかなかったのです二重丸

 

(正直、内覧宣旨を巡る過程での、伊周の強引さに心証を害したとはいえ、一条は彼を関白にしたいと考えていました♀)

 

そうした動きと関連していたのか

 

内裏(だいり)退出して父道隆の最期を看取った定子が、その二日後には還御(かんぎょ)していたのです叫び

 

ミウチの死に立ち会った場合、その死穢(しえ)に触れたということになり、喪中期間として定められた日数は外出をしないというルールがありましたキューン

 

したがって、本来ならば、定子は喪中期間を過ぎなければ内裏に戻ってはいけなかったのですが、何と彼女は父死後から僅か

二日で還御してしまったのです叫び

 

当時の常識では、間違いなく禁忌される行動であり、ましては、後宮女官の主である中宮が決して犯してならない遵守事項

あったのですが目

 

定子は敢えてこれを破り、内裏に参入したのですダッシュ

 

恐らく、定子は一条帝に対して伊周への関白宣旨を懇願したと思われるのですが、こうした常識破りの行動を行わざるを得なかった所に…

 

当時の中関白家が置かれていた状況が知悉されますねあせる

 

当然ながら、定子の掟破り(中関白家の御家芸とも言べきか)の還御は、後宮のみならず政治の舞台である内裏にも穢れを撒き散らす結果となり

 

(彼女と接した)一条帝を始め多くの公卿や女官が死穢に触れたため政治や儀式が滞ってしまうという事態を招いてしまったのです叫び

 

道隆の後任関白の決定が、彼の死から十七日も後になったのも、そうした事情に因るものと思われますw

 

続きは次回に致します注意