八房が私の目を覚まさせてくれた。
熱を持った私の心は急速に冷えていった。

道ならぬ恋から助け出してくれた八房。


しかしその代償は大きい。
八房は飼い犬としては、絶対にしてはいけないことをしてしまった。
普通ならもう2度と会えなくなってしまうかもしれない。


悲しみに暮れていたところに、八房のケアをしてくれた獣医さんから連絡があった。

急いで、病院へ向かう。


「こんにちは、院長の犬塚と申します」

犬塚……さん?
なんというか、獣医に打ってつけの名前なんだろう。
それに……。


犬塚さんは話を続ける。
「八房クンのことですが、今回の件は特別な事情があったんだと思います。
特に凶暴な性格というわけでもないし、きちんと躾もされてるし」


私の心に希望の光が射す。


「なので、厳重注意という事で先方から了承を頂きました。
私としても八房という名前の犬を処分するのは、出来るなら避けたいですからね」


そうでしょう、サトミさん。
もし、一人で育てるのが不安なら僕が相談に乗りますよ。


彼は私の名前を呼んでそう言った。


サトミに八房に犬塚ね。
どこかのお話みたいになってきたわね。

私は貴女の為なら何だってしようと思ってた。
それが例え貴女の望まないことだって。


何かを認識する前に私の体は貴女の隣にいる男に飛び掛っていた。
これが本能なのか。それとも私のこころの奥にある嫉妬の感情の為なのかはわからない。


ただ、私たち種族には人間と対等に話をする術がない。
だから、こうやって力ずくの手段にでるしかないのだ。


その結果が貴女を悲しませることになることも。
私の身の安全が脅かされることも考えないわけでもない。


それでも、私は貴女がいなければ存在しなかったも同然なのだから。
きっと、これでよかったんだと思う。


後悔はしない。
ただ、貴女の未来に忠誠を誓えないのが少し残念なだけ。



-おしまい-

自分では既に歯止めが効かなくなってしまっていた。
どうすることも出来ない。


自分の体で自分の心のはずなのに、高温で熱せられた鋼のようだ。
朱色に燃え、ぐにゃりと曲がってしまいそうで危うい。
その鋼はどこに行き着くのか、自分でも分からない。


堅く固まってしまうのか、それとも打ち砕かれてしまうのか。


私の心の均衡は一匹の犬によって支えられていた。
現実に繋ぎとめてくれる楔のような犬。


その犬に私は八房と名づけた。


一人暮らしの家に帰ると、音がない。明かりもない。
たまにその孤独な空間を切り裂きたくて、叫びだしそうになる。
もちろん、彼に会った後は余計に一人を感じてしまう。

八房は、彼に会った後のどうしようもない虚無感を埋めてくれる。



こんな事はもう止めよう。これで最後にしようと思うのに、私の手は勝手にケータイを操作し、次にいつ会えるのだと催促してしまう。



そして、今日も私は会うことを止められず、彼の元へと向かってしまう。

夕暮れの街を彼と歩いていると、見知った声が聞こえてきた。


正確には鳴き声なのだけれど。


聞こえる方向を振り向くとそこには八房がいた。


なんでこんなところに八房が……。

そんなことを思う間もなく、八房は一直線へこちらへ走り、そして彼へと飛び掛った。


致命的にセンスがないと気付いたのは、いつ頃からだったろうか。

社会人になってからは、特に強く意識するようになった。

きっと、自分のセンスではお金になることがないという事が分かり、世界共通認識のセンスが無ければ、お金が発生しないという事を痛感したからだと思う。


もし、自分が持っているセンスが世界に唯一しかなく、それに価値があると見出されたのならば、そのセンスにも存在価値があっただろう。


けれど、自分が持っているのは汎用、それでいてダサい。


私という個性なんて埋没してしまえ!と思っていても、

じゃあ、君のセンスで。なんて言われると妙に張り切って空回って、結局はダメ出しの嵐。


君に任せたって言ったはずのクライアントはセンスが無い奴に当たってしまったな。って顔をしている。


それで思うんだ。自分にもっとセンスがあったならって。


休日に町に出て気分転換をしてみる。

感性を磨くという事が必要なのかもしれない。


町を歩いていると、日本家屋を改築したような雑貨屋が目に付いた。

看板は木彫りで大きく「近藤堂」と書いてあった。


こんなお店あったっけなと思いながらと、ふらりと立ち寄る。


そこには和風の雑貨がたくさん置いてあった。お香や何に使うのか思いつかないような壺。

そして大量のセンス。


センス……?


あまりの種類の多さにしばらく惚けていた。

固まっていたら店員さんに声を掛けられた。

「センス、お探しですか?」


確かに探していると言えば探している。だけど自分が探しているのはこのセンスなんだろうか。


「あ・・・・・・いや、センスがないなぁって思うことが多くって」

自分はいったい何の話をしているのだ。


「なるほど、そういう方よくいらっしゃいますよ」

「いや、自分が言っているセンスっていうのは……」

言葉を遮って店員さんは続ける。

「分かります!センスないと困りますよね。誰にでもっていう訳ではないんですけど、特別ですよ。

お客さん、いいネタ持ってそうだし」


「こんなところでネタなんて披露出来ませんよ!」

何だか話があらぬ方向に行きそうなので慌てて断ろうとするも店員さんの勢いは衰えない。


しょうがなく、私は新作を2本披露する事になってしまった。


それに満足した店員さんに店の奥に連れて行かれる。


「これがとっておきのセンスです」

どう見たって普通のセンスだ。普通よりも地味なぐらいだ。


「とっておきって。店頭にもっと素敵なセンスがあるじゃないですか」


「何言ってるんですか?店頭にあるのは扇子ですよ」

段々と頭の中が混乱してきていた。

ここは、流れに身を任せるしかないと、

店員さんの手から受け取ってその扇を広げようとすると大きな声で止められた。

「それを広げるのは今じゃありません!」


びっくりしてセンスを床に落としてしまう。

それを拾いながら店員さんは私に忠告をした。

「これを広げるのは、自分にセンスが無いなと痛感した時にしてください。

そうじゃないと、効果が薄れますから」


何だかよく分からないけれど、とにかく店員の近藤さんにお礼を言ってその店を後にした。



そのセンスは鞄に忍ばせたまま、しばらくの間、その存在すら忘れていた。


ある日、またクライアントの無茶な注文に辟易していた。

大きく深呼吸をして目頭を押さえる。

目薬を注そうとして、鞄の中を漁る。

そして、いつかのセンスを見つけることになる。


そう言えば、こんな物もあったなと私はそのセンスを広げてみた。


そこに書いてある事を見て、私は声を上げて笑った。

デスクの横にいた同僚が何事かという目で見てきたけど、思い出し笑いだからと言い訳した。


目薬を差して、パソコンへと向き合う。


なんだこんな単純なことだったのか。

視界を覆っていた靄が晴れた気がした。


そのセンスに何が書いてあったかって?

それは私のセンスであり、世界共通認識のセンスだから、教えてあげるわけにはいかない。

最近考えることは、あの悲しみはどこからやってくるのだという事だった。


私は気が付いた。

ある匂いを纏っている時、貴女の悲しみはより一層深くなることを。


この匂いの元を辿っていけば、貴女の悲しみの源泉を突き止められる。

その泉をせき止めることが出来たなら、私はきっとあなたを幸せへと導くことが出来るんじゃないだろうか。


誰もいない部屋でそんなことを考える。



私は意を決して、部屋を飛び出した。


一人で歩く道は、ただただ大きく感じられ、不安が襲ってくる。

道に残っている僅かばかりの貴女の匂いを頼りに歩き出す。


道行く子ども達が興味深げに眺めてくる。

無邪気な好奇の目が怖い。

貴女と一緒に歩いているときには感じたことのない恐怖。

私は少しの怯えも漏らさないように貴女の元へと急いだ。


やがて、日が暮れて貴女の匂いすら消えてしまいそうになる。

そんな時、街中に貴女の後姿が見える。


思わず駆け寄っていきたくなる気持ちを抑えて、後ろから見守る。


貴女の隣には見知らぬ男。


その男の影から私は悲しみを嗅ぎ取る。


だけど、貴女は私の見たことのない種類の笑顔で微笑む。

まるで少女のように屈託のない笑顔。


私は思い知る。

私の限界を思い知る。


ただ、それでも貴女に幸せを教えてあげたい。

貴女は笑っているけれど、それは本物の幸せなんかじゃない。


気づかない振りしてるんだ。それが偽物の幸せだってことに。

貴女の幸せはビー玉みたいな幸せ。

キラキラ煌いていて、光を反射して様々な色が透き通っている。

とってもきれいでポケットにしまっておきたくなる。

だけど、それは危うい程、脆くてありふれていて唯一ではない。



どうやら、毛布に包まったまま眠ってしまっていたらしい。


ふと、五感の片隅に貴女の存在が照らし出される。

私には分かるのだ。貴女がもうすぐ帰ってくるのだということが。


毛布を蹴飛ばして、弾みをつけてベッドから飛び降りた。


ひんやりとした廊下の木目を見つめながら、貴女を待ち構える。

鍵を回す音がして、程なく扉が開く。


貴女は私の名前を呼びながら笑顔をくれる。

私が一日中待ちわびた笑顔だ。


貴女は冷めてしまったスープを流しに捨て、代わりに温かいスープを作る。


貴女はいつも外から帰ってくると、私に色々なことを話しかけてくれる。

ただ、私にはそれが理解できない。


それでも伝わるものはある。

微かに変化する匂い、そして温度。


だからたとえ、その内容が理解できなかったとして、貴女の感情を読み取れる。

言葉がなくても感じ取れる。


それは、人間が言葉で伝え合うよりも、より確かで繊細に。


ここ数日貴女の笑顔の裏に貼りついて離れない不安や悲しみはいったい何なのでしょうか。

言葉を使って聞けたならいいのに。

私にはそれが出来ないから、ただ貴女の寝顔を眺めるだけ。

狭い部屋に私は一人残されたまま。


薄いカーテンが引かれた部屋は少し薄暗い。

窓に近づいてみて、外を眺めてみてもどんよりとした雲が一面を覆っているだけ。

これならいっそ雨が降り出してしまえばいいのにと私は思う。

こうやって、はっきりとしない空模様のせいで気持ちが落ち着かない。



貴女と私が共有する時間はとても短い。

1日の大半を外で過ごす貴女。


私の世界は全て貴女で形作られているというのに、貴女は私の知らない世界をもっているのでしょう。


時々悲しい顔を見せる理由はいったいなんなのでしょう。



私の世界は雨の日に貴女が外に連れ出してくれたあの日から始まった。
それ以前はたとえ母親の体の外に出ていたとしても、なんの意味ももっていなかったから。


だから貴女の為に生きたいと思ったのは自然なこと。



外では風が強く吹いている。
窓ガラスを通り抜けようとする風のせいで、誰かの悲鳴に似た音が鳴っている。


もうそろそろ、季節は冬になろうとしていた。

この部屋に風が吹き込まないはずなのに、寒気を感じる。

テーブルの上に残されたスープも、もう冷たくなってしまった。

私は、今朝あなたが出て行ったままのベッドに潜り込み、そっと毛布に包まった。



貴女と出会ったのも、雨降りの日曜日だった。


貴女は突然やってきて、小さな私の体を抱き上げた。


窓から見える景色は、どれも雨粒で滲んでいて世界の輪郭はぼやけたままだった。


暖かい車内では、隣であなたも窓の外を見ていた。
私には貴女の表情を見ても何も感じることができない。


私には貴女が何者であるかすら分からないんだから。


そして、私と貴女との生活は始まった。


狭い部屋。
必要最低限のものだけが置いてある。


貴女は私のことを「八房」と名づけた。

私に命を吹き込んでくれた貴女。

冷たい雨粒が地面に跳ね返り、足元を濡らす。


シトシトと降る雨音に耳を傾けながら、交差点で信号が青になるのを待つ。
数十秒の間、私と貴女は立ち止まる。

隣に並ぶ貴女と私。


こんなにも近くに並んでいるというのに、交わらない視線。
貴女の見ている景色と私の見ている景色はどれ程違うというのだろうか。


私に見えていないものが、きっと貴女には見えている。

百数センチ高い位置にある貴女の顔を仰ぎ見る。

これから先、同じ景色を見ることなんて無いのだと思う。

ならば、一番近くにいよう。
貴女の隣を歩き続けて、私が守ってあげるから。



信号が青に変わり、町は動き出す。
横断歩道には色とりどりの傘たちが行き交っている。


そして、今日も雨が降る。