「楯親忠(たてちかただ)さんの墓碑は群馬県にあると聞いてますが…」
と、佐久市正法寺の方から情報を得た。
義仲四天王の一人楯親忠は、義仲とともに鎌倉軍との京都周辺での合戦で戦死した。
しかし戦死の地、墓碑などは分からないままでいる、不明…。
▼激戦場だった宇治川畔に立つ「宇治川先陣之碑」。義仲軍は大敗した。
同じく四天王の一人で親忠の実父・根井行親(ねのいゆきちか)も京にて戦死した。
従者か家臣が故郷信濃の佐久へ晒られた首級を持ち帰ったか、佐久市根々井の正法寺には妻室が立てたという墓所がある。
▼根井行親の墓塔(佐久市正法寺)
因みに義仲四天王とは「今井兼平・樋口兼光・根井行親・楯親忠」をいうが、手塚光盛が入ることも。
兼平と兼光は兄弟である。
兼平は大津市琵琶湖近くに、兼光は長野県塩尻市に墓所が立っている。
▼今井兼平墓所
▼樋口兼光墓所。因みに戦国の武将、直江兼続は兼光の子孫を称した
正法寺の方に、「楯親忠さんは居館跡の碑がはありますが、墓碑などはないんですか」
と尋ねたことで、冒頭の返事を頂いた。
▼楯親忠居館跡(佐久穂町)
おそらく義仲遺臣や行親・親忠の従者たちは、肩を落として京から東信濃へ戻って来たが、鎌倉方の詮索を避けてか、隣国の上野国の方へ移り住んだのではないかという。
あれやこれや調べて、信濃から碓氷峠を越えて上野国へ、群馬県渋川市北橘に祀られているという木曽三社神社を訪ねた。
都で敗れた義仲遺臣らは、信濃の地への鎌倉の圧力を避けたのであろう。
義仲が信奉していた信濃の岡田神社など三社を勧請してこの地に遷したと考えられる。
まるで谷底のような地に目立たぬよう、しかし立派な社殿が建てられていた。
そして同地区の高台、
「おぉ、これだ!」
地元の方に教えていただいた墓地の一角に見つけた。
「親法公忠大禅定門」と刻まれた、これぞ楯親忠の墓碑。
遠くに榛名山が霞む。墓地には「楯家」の名字が多かった。
義仲挙兵の大きな原動力となった東信濃の有力豪族・根井一族の賛同。
義仲は、木曽から筑摩そして東信濃へ馬を進め、依田城にて根井一族らと合流、挙兵した。
楯親忠は行親の六男だったが、有力な家臣として義仲に参じた。
依田城山麓(上田市丸子)の、浅間山を望む地に「木曽義仲挙兵の地」と大書された看板が立つ。