賀茂保憲の解説~才能と人格を兼ね備えた平安の大陰陽師

賀茂保憲

賀茂保憲とは

平安時代を語るのに欠かせない陰陽師と言えば安倍晴明、そしてライバルの蘆屋道満が有名ですが、彼らに引けを取らない実力者・賀茂氏がいました。その中でも断トツと言える人傑が、賀茂保憲(かものやすのり)です。

陰陽の大家として名を馳せた保憲ですが、延喜17年(917年)に賀茂忠行の息子(母の名は不明)として生まれたこと、賀茂保遠・慶滋保胤・慶滋保章と言う兄弟がいたこと以外、少年期のことは不明です。また、歴史の表舞台に登場するのが20代半ばになった天慶4年(941年)に造暦宣旨を受けて従五位・暦博士になり、その2年後に陰陽博士を拝命した記録があること以外、やはりその前半生は謎に包まれています。


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そのためか、保憲が幼い頃の逸話にはミステリアスな伝説を交えて語られるものがあり、代表的なのが『今昔物語集』に記された以下の逸話です。

官吏もこなすマルチな才能

『今昔物語集』の巻24によると、保憲が偉大な陰陽師としての片鱗を見せたのは10歳ほどの頃で、払いの依頼を受けた父の忠行が出かけようとすると、保憲は連れて行ってくれとねだり始めます。祓いの席に同行した保憲は儀式中こそおとなしく座っていましたが、祓いが済むと父に尋ねました。

「ねえ、お父さん。さっき僕は、人間じゃないけど人間のように見える恐ろしいものが2、30も現れたのが見えたんだよ。それで、祓いのお供え物を食べて、置いてあった造り物の船や車、馬に乗って帰って行ったんだ…あれって何なのかなあ」

この話を聞いた忠行は、自分が長年の修行でようやく鬼神を見る神通力を会得したのに対し、修行もしていない息子が目に見えない鬼や神を見る力に生まれつき長けているのを知って驚くと同時に喜び、その知識や技術を余すことなく保憲に伝えて陰陽道を継がせたと言います。

史実でも保憲は天徳元年(957年)に陰陽寮の長官である陰陽頭、天徳4年(960年)には税収を監査している主計寮で主計権助(定員外の官)、天文道を伝える教官である天文博士に就任し、陰陽師としてだけでなく内政を司る官僚としても精力的に勤め、天延2年(974年)には従四位上に叙せられるなど、スピード出世していきました。説話の世界で語られる神童ぶりに恥じない活躍だったと言えます。

2人の後継者に託した教えは今も残り続ける

高い能力で出世街道をひた走ると周りが見えなくなる、おごり高ぶる、後継者の問題があるなどトラブルがつきものです。が、保憲はそうした醜聞とは無縁だったらしく、天暦6年(952年)に従五位下に昇進した時には、まだ正六位上どまりだった父の忠行を気遣って当時の公卿であった大江朝綱に父も昇進させてほしいと頼むなど、父思いな性格を伝える逸話が伝わります。

貞元2年(977年)に60年の生涯を終えた保憲ですが、その死後は後継者に恵まれていたことで、盤石なものだったようです。その後継者には、親譲りの才能を誇っていた長男の賀茂光栄と、一説には忠行にも師事していたことから弟弟子として扱われることもある安倍晴明と言う二枚看板の弟子がいました。

一般的には気心の知れた血縁者に世襲させるか、血がつながらなくても実力のある者で悩みそうなものですが、保憲がとった行動は驚くべきものでした。それは、どちらかを軽んじることはせず、これまでひとつだった陰陽道のうち、天文道を晴明に継がせて光栄に歴道を継がせたのです。


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これこそ、“安賀両家”という陰陽道の二大宗家が誕生するきっかけとなった出来事で、それに対して息子の光栄は陰陽道を二つに分けることが疑問だったようで、どちらが保憲に重んぜられているかで晴明と論争したと言われています。

また、保憲は今も旧暦を読むのに用いられる『暦林問答集』の元となった『暦林』の著者でもあり、暦の伝統を築き、発展させるという多大な功績も残しました。その後、賀茂氏は陰陽道の宗家として栄え、光栄が保憲から引き継いで発展させた暦道は今も私達の生活に息づいています。

(寄稿)太田

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