シャボン玉の詩

前へ前へと進んできたつもりでしたが、
今では過去の思い出に浸る時間も大切にしなければ、
と思っています。

思い出の道(16)

2019-01-12 10:05:54 | Weblog
その日、授業が終わって雁首揃って校長室でこんこんと説教を受けた。
「他人が懸命に育て上げたものを勝手に取るなんてことは盗人である。取った柿を玄関に並べたことについては情状酌量の余地があるとはいえ夜中に断りもなしのこの行為は泥棒である」
ビシビシと追及され、さすがに足が震えた。
さほどに悪い事とは認識せずにやったことではあるが。大変なことをしてしまったと後で気がついた。
その日の晩、仲間たちとその家へ謝りに行った。
「やったのは君たちか。それにしても大胆なことをしたものだ。然しいたずらの枠を超えているぞ。悪にならないように勉学に励んで下さい」
お爺さんは怒った表情で、目が笑っていた。僕らはほっとした心地で帰ろうとしたら「持って行きなさい」と言われ、柿を2個ずつ手新聞紙に包んだ。僕らは深々と頭を下げて帰った。以来そのお爺さんとは逢う度に挨拶を交わし、励まされたものである。

その頃、我が家は少しづつ暗雲が立ち込め始めていた。僕はかなり前からそのことを察していたが何も聞かず、何も言わず、しかし家の中は何となく厭な気分が立ち込めていて面白くなかった。経済的にかなり追い詰められてきていたようである。
「せめてお父さんが多少なりともお金を入れてくれたらねえ」と母の愚痴を初めて聞いた時、父に何かが起こっていると察したことを覚えている。然しそ以上のことは聞かず、母の命に従って黙々と家事を手伝った。
畑の仕事量が格段に増え、作った野菜を売り歩くだけの仕事であった僕の仕事はもう1人前の百姓の子倅である。更に朝4時半に起きて新聞配達をやり家計を助けた。
兄が大学を卒業するまであと2年である。
今にして思えば母は鬼のような形相で頑張っていたのであろうと察する。
産休などが出たとき臨時教員として歩いて1時間、高知港の近くの「みませ」というところまで時々働きに出たりしていた。その間の野良仕事や家事は僕が学校から帰って来てからの仕事である。
僕は友達と遊ぶ時間がなくなっていた。遊ぶ時間は専ら学校である。ひょうきん者の僕は皆を笑わせるのが得意で常に目立ちたがり、あの「柿の事件など忘れたかのように腕白ぶり発揮していたようである。

急に母が妙なことを言いだした。
「今日から2,3日夜中の11時ごろ起こすからね。私と一緒にお父さんを迎えに行ってちょうだい」
このところ父の帰りがぐんと遅くなっていた。明け方になることもあった。いつも酔っ払っていた。当時僕はまともに父と話した記憶はない。
何かあるな、と直感したが、未だその時は何もわからぬ小童であった。

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