仙台市泉区に広大な鶴ヶ丘公園があります。ここには中世から松森城別名鶴ヶ丘城があった所です。国分氏が造営された城で,仙台の歓楽街である国分町の名前の由来とも言われています。ここでは国分氏について調べた事をレポートします。
はじめに
国分氏は、戦国時代の日本において、東北地方の重要な武士団の一つであり、その歴史は松森城の築城と深く関わっています。松森城は、国分氏の拠点として長らく存在し、周辺の歴史的背景と密接に関わりながら、戦国時代の動乱に影響を与えました。以下では、国分氏の歴史とその戦いの背景について概説します。
1. 国分氏の起源と支配領域
国分氏の詳細な起源についてははっきりしていませんが、おそらく松森城を築城したのも国分氏によるものとされています。松森城が築かれた時期や目的についての記録は不明ですが、国分氏がこの地域を支配したことは確かです。国分氏の勢力は、現在の宮城県を中心に広がっていたと考えられます。
2. 松森城と国分氏の内紛
国分氏の歴史の中で特に注目すべき出来事の一つは、国分家内で発生した内紛です。1506年(永正3年)には、国分家の有力親族である松森盛次が反乱を起こし、国分胤実の討伐を受けました。これは、国分氏と留守氏との間で起きた「小鶴沼合戦」の結果と関連していると考えられています。国分氏の内部分裂とその後の戦闘は、国分家がその支配権を維持する上で大きな障害となったことを示しています。
さらに、1537年(天文6年)には伊達稙宗からの書状において、松森城の名前が登場し、国分氏と留守景宗との戦いが言及されています。この時期、松森城は国分氏の防衛の要所として重要な役割を果たしていたことがわかります。
3. 国分騒動とその影響
1577年(天正5年)、伊達家から伊達晴宗の子・盛重が国分氏に養子として迎え入れられます。盛重は、松森城を本拠地とし、その統治を開始しましたが、家臣との対立が生じ、1587年(天正15年)には盛重と反対勢力との間で内紛が勃発しました。この内紛は、盛重が堀江長門に攻められ、伊達政宗の介入によって収束しました。最終的に、盛重は国分領を手放し、松森城を含む領地は伊達政宗の直轄領となりました。
この国分騒動は、伊達政宗が東北地方の支配を強化するきっかけとなり、松森城はその後、伊達政宗の軍事的な要所として重要な位置を占めるようになりました。
4. 松森城と伊達政宗の支配
国分氏の支配が終わると、松森城は伊達政宗の支配下に入ります。政宗は、大崎領への侵攻において、松森城を後方基地として活用しました。松森城はその地理的な位置から、大崎領の侵攻を支える重要な拠点となり、伊達軍の戦力が集結し、松森城からの支援が行われたことが記録に残っています。
また、松森城の軍事的な役割が強化され、城内には兵力が駐屯し、重要な軍事拠点として機能しました。この時期が、松森城が最も活気に満ちた時期であったと考えられています。
5. 松森城の最期とその後
1596年(文禄5年)、伊達政宗は再び国分盛重を討つ決定を下し、松森城を攻撃しました。この攻撃により、国分盛重は義兄である佐竹義重のもとへ逃れました。この戦いによって、松森城は実質的に国分氏の手を離れ、伊達政宗の支配が確立されました。その後、松森城は一時的に重要な軍事的な拠点として機能することはなくなりますが、江戸時代には仙台藩の「在所」として使われ、行政的な中心としての役割を果たしました。
6. 結論
国分氏は、松森城を中心に東北地方で重要な武士団として存在しましたが、内紛や外的な圧力により、その支配を維持することは困難でした。伊達政宗の介入によって、松森城は最終的に伊達家の支配下に入り、軍事的な拠点としての役割を果たしました。国分氏の歴史は、松森城の戦略的な重要性を背景に、戦国時代の動乱の中で刻まれており、その後の伊達家の支配にも大きな影響を与えました。
参考文献
・仙台市史編さん委員会 『仙台市史 特別編7 城館』
・古内泰生『政宗が殺せなかった男 秋田の伊達さん』(現代書館、2014年)
次に重盛についてレポートします。
伊達重盛の生涯
伊達重盛(または国分盛重)は、戦国時代の日本の武将であり、伊達氏の一族として様々な激動の時代を生き抜いた人物です。彼は天文22年(1553年)、伊達晴宗の五男として生まれ、幼名を彦九郎、元服後は政重と名乗った。政重は、伊達氏の家族間の変動と権力闘争の中で様々な役割を果たし、後に伊達家から離れ、佐竹家に仕官することとなります。
国分氏の後継者としての役割
天正5年(1577年)、政重は兄・伊達輝宗の命により、陸奥国宮城郡の小大名である国分氏の当主として送り込まれました。国分氏は伊達家に従属しており、この時の政重の任命には家中の反発がありました。国分氏の後継者として政重が登場した背景には、国分氏の先代の盛氏が後継ぎを残さずに死去したことがあるようです。しかし、国分家の家臣たちは政重を嫌い、輝宗は鬼庭良直を派遣して調停を試みるも、家中の不満は収まりませんでした。結果として、政重は国分の代官として任務を遂行することとなりましが、国分家の家中での地位は安定せず、政重の支配には様々な困難が伴ったのです。
伊達氏の家臣としての活躍
政重は伊達氏の家臣として、戦闘や外交にも従事した。特に、天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、伊達政宗の軍の一部として活躍し、佐竹・蘆名連合軍との戦いに加わっりまた。しかし、政重の治世における政治的不満が広がり、家中の反発が高まると、天正15年(1587年)には反乱の兆しを見せました。政宗は最終的に政重を討伐しようとしましたが、政重は謝罪して許され、国分氏の家臣たちは伊達政宗の直轄下に置かれることとなったのです。この事件により、政重の政治手腕に疑問を抱かれるようになりました。
豊臣政権下の伊達家臣としての安定
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により伊達政宗は豊臣家に従うことを決め、政宗の領土が再編される中で国分氏は改易を免れました。これにより、政重は伊達氏に戻り、伊達盛重としての名を再び名乗ったのです。この時期、政重は葛西大崎一揆の鎮圧に関与したり、蒲生氏郷との調整役として活躍するなど、伊達家の内外で重要な役割を果たしました。
佐竹家への仕官と晩年
その後、政重は伊達家を出奔し、慶長元年(1596年)に佐竹義宣の下に仕官することとなります。佐竹家に仕官した後、彼は秋田に転封され、横手城を与えられ、秋田伊達氏の祖となりました。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では奮戦したが、翌年の夏の陣には病気のために参加しませんでした。元和元年(1615年)7月15日、重盛は63歳で死去し、その後は養子にあたる伊達宣宗が後を継いだ。
まとめ
伊達重盛は、伊達氏とその家臣として数多くの戦闘や政争に関わりながらも、その生涯には多くの波乱があった。家中の反発を乗り越えて一時的に国分氏を治めたものの、その後の伊達家の中での処遇や家族間の争いを経て、最終的に佐竹家に仕官することとなりました。政重(後の盛重)の名は、彼の政治的、軍事的な経歴と密接に関連しており、その晩年には新たな土地で再び名を馳せることとなったのです
伊達重盛の生涯と横手城
伊達重盛(または国分盛重)は、伊達氏の一族として数多くの歴史的出来事に関与した武将である。その生涯は波乱に満ちており、最終的には伊達家を離れて佐竹家に仕官し、秋田に移ることとなった。ここでは、特に彼の晩年に関わる横手城についても詳しく触れる。
横手城の建設とその重要性
横手城は、現在の秋田県横手市に位置する城で、重盛が佐竹義宣の家臣として秋田に転封された後、与えられた拠点であった。横手城の設立には、慶長5年(1600年)の佐竹氏の転封が関わっている。
佐竹義宣が秋田に転封される際、重盛も同行し、横手城がその拠点として整備された。横手城は、秋田地方の防衛拠点として、また佐竹氏の支配を確立するための戦略的な重要拠点とされていた。横手城は、山の上に築かれた城であり、周囲の地形を活かした防御に優れた城としても知られている。
重盛は、この横手城に移り住み、佐竹家の家臣として新たな地でその地位を築いていった。横手城は、当時の秋田藩にとって重要な行政・軍事の拠点であり、重盛の存在はその安定に寄与したと考えられる。
横手城と重盛の役割
重盛が横手城に拠点を構えた背景には、慶長5年(1600年)の佐竹義宣の転封が大きな影響を与えている。佐竹家が秋田に移される際、重盛もその一員として、秋田の地に足を踏み入れることとなった。横手城はその後、重盛の住まいとなり、彼の軍事的な拠点ともなった。
重盛が横手城に住んでいた時期には、佐竹家は新しい領地での支配を確立するために努力しており、重盛もその一翼を担った。横手城からは周囲の地域を監視し、佐竹家の支配を強固なものにする役割を果たしたと考えられる。また、重盛は横手城を拠点にして、周辺の治安維持や領民の統治にも関与していたことが想像される。
大坂の陣と横手城
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、重盛は従軍し、今福の戦いで奮戦したとされている。この戦いは、豊臣家と徳川家の間で繰り広げられた戦闘であり、重盛もその戦いに参加したことで、佐竹家の忠義を示した。翌年の夏の陣には病気のため参加しなかったが、横手城を留守にする家臣の一人として、城の守りを任されていた可能性がある。
横手城は、その後も佐竹家の支配下にあり、重盛が没した後もその重要性は続き、横手城周辺は秋田藩の中心的な地域となった。
晩年と横手城の遺産
元和元年(1615年)、重盛は死去し、享年63であった。彼の死後、横手城は佐竹家の支配下で存続し、後にその土地は伊達家の支配を受けたこともある。重盛が秋田において果たした役割と、横手城を中心に築いた基盤は、彼の遺産の一部として地域の歴史に刻まれた。
横手城はその後、時代とともに変遷を迎え、現在はその一部が遺跡として残るに至った。しかし、重盛の時代における横手城の存在は、彼が佐竹家のために果たした重要な役割を象徴するものであり、彼の軍事的・政治的な地位の証しでもあった。