自然コレクション

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秋田の田舎暮らし!
アウトドアー生活を紹介します。

国分氏と横手の関係

2025年04月02日 04時18分00秒 | 郷土史
仙台市泉区に広大な鶴ヶ丘公園があります。ここには中世から松森城別名鶴ヶ丘城があった所です。国分氏が造営された城で,仙台の歓楽街である国分町の名前の由来とも言われています。ここでは国分氏について調べた事をレポートします。

はじめに
国分氏は、戦国時代の日本において、東北地方の重要な武士団の一つであり、その歴史は松森城の築城と深く関わっています。松森城は、国分氏の拠点として長らく存在し、周辺の歴史的背景と密接に関わりながら、戦国時代の動乱に影響を与えました。以下では、国分氏の歴史とその戦いの背景について概説します。

1. 国分氏の起源と支配領域
国分氏の詳細な起源についてははっきりしていませんが、おそらく松森城を築城したのも国分氏によるものとされています。松森城が築かれた時期や目的についての記録は不明ですが、国分氏がこの地域を支配したことは確かです。国分氏の勢力は、現在の宮城県を中心に広がっていたと考えられます。

2. 松森城と国分氏の内紛
国分氏の歴史の中で特に注目すべき出来事の一つは、国分家内で発生した内紛です。1506年(永正3年)には、国分家の有力親族である松森盛次が反乱を起こし、国分胤実の討伐を受けました。これは、国分氏と留守氏との間で起きた「小鶴沼合戦」の結果と関連していると考えられています。国分氏の内部分裂とその後の戦闘は、国分家がその支配権を維持する上で大きな障害となったことを示しています。

さらに、1537年(天文6年)には伊達稙宗からの書状において、松森城の名前が登場し、国分氏と留守景宗との戦いが言及されています。この時期、松森城は国分氏の防衛の要所として重要な役割を果たしていたことがわかります。

3. 国分騒動とその影響
1577年(天正5年)、伊達家から伊達晴宗の子・盛重が国分氏に養子として迎え入れられます。盛重は、松森城を本拠地とし、その統治を開始しましたが、家臣との対立が生じ、1587年(天正15年)には盛重と反対勢力との間で内紛が勃発しました。この内紛は、盛重が堀江長門に攻められ、伊達政宗の介入によって収束しました。最終的に、盛重は国分領を手放し、松森城を含む領地は伊達政宗の直轄領となりました。
この国分騒動は、伊達政宗が東北地方の支配を強化するきっかけとなり、松森城はその後、伊達政宗の軍事的な要所として重要な位置を占めるようになりました。

4. 松森城と伊達政宗の支配
国分氏の支配が終わると、松森城は伊達政宗の支配下に入ります。政宗は、大崎領への侵攻において、松森城を後方基地として活用しました。松森城はその地理的な位置から、大崎領の侵攻を支える重要な拠点となり、伊達軍の戦力が集結し、松森城からの支援が行われたことが記録に残っています。
また、松森城の軍事的な役割が強化され、城内には兵力が駐屯し、重要な軍事拠点として機能しました。この時期が、松森城が最も活気に満ちた時期であったと考えられています。

5. 松森城の最期とその後
1596年(文禄5年)、伊達政宗は再び国分盛重を討つ決定を下し、松森城を攻撃しました。この攻撃により、国分盛重は義兄である佐竹義重のもとへ逃れました。この戦いによって、松森城は実質的に国分氏の手を離れ、伊達政宗の支配が確立されました。その後、松森城は一時的に重要な軍事的な拠点として機能することはなくなりますが、江戸時代には仙台藩の「在所」として使われ、行政的な中心としての役割を果たしました。

6. 結論
国分氏は、松森城を中心に東北地方で重要な武士団として存在しましたが、内紛や外的な圧力により、その支配を維持することは困難でした。伊達政宗の介入によって、松森城は最終的に伊達家の支配下に入り、軍事的な拠点としての役割を果たしました。国分氏の歴史は、松森城の戦略的な重要性を背景に、戦国時代の動乱の中で刻まれており、その後の伊達家の支配にも大きな影響を与えました。
参考文献
・仙台市史編さん委員会 『仙台市史 特別編7 城館』
・古内泰生『政宗が殺せなかった男 秋田の伊達さん』(現代書館、2014年)
次に重盛についてレポートします。

伊達重盛の生涯
伊達重盛(または国分盛重)は、戦国時代の日本の武将であり、伊達氏の一族として様々な激動の時代を生き抜いた人物です。彼は天文22年(1553年)、伊達晴宗の五男として生まれ、幼名を彦九郎、元服後は政重と名乗った。政重は、伊達氏の家族間の変動と権力闘争の中で様々な役割を果たし、後に伊達家から離れ、佐竹家に仕官することとなります。

国分氏の後継者としての役割

天正5年(1577年)、政重は兄・伊達輝宗の命により、陸奥国宮城郡の小大名である国分氏の当主として送り込まれました。国分氏は伊達家に従属しており、この時の政重の任命には家中の反発がありました。国分氏の後継者として政重が登場した背景には、国分氏の先代の盛氏が後継ぎを残さずに死去したことがあるようです。しかし、国分家の家臣たちは政重を嫌い、輝宗は鬼庭良直を派遣して調停を試みるも、家中の不満は収まりませんでした。結果として、政重は国分の代官として任務を遂行することとなりましが、国分家の家中での地位は安定せず、政重の支配には様々な困難が伴ったのです。

伊達氏の家臣としての活躍

政重は伊達氏の家臣として、戦闘や外交にも従事した。特に、天正13年(1585年)の人取橋の戦いでは、伊達政宗の軍の一部として活躍し、佐竹・蘆名連合軍との戦いに加わっりまた。しかし、政重の治世における政治的不満が広がり、家中の反発が高まると、天正15年(1587年)には反乱の兆しを見せました。政宗は最終的に政重を討伐しようとしましたが、政重は謝罪して許され、国分氏の家臣たちは伊達政宗の直轄下に置かれることとなったのです。この事件により、政重の政治手腕に疑問を抱かれるようになりました。

豊臣政権下の伊達家臣としての安定

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の命により伊達政宗は豊臣家に従うことを決め、政宗の領土が再編される中で国分氏は改易を免れました。これにより、政重は伊達氏に戻り、伊達盛重としての名を再び名乗ったのです。この時期、政重は葛西大崎一揆の鎮圧に関与したり、蒲生氏郷との調整役として活躍するなど、伊達家の内外で重要な役割を果たしました。

佐竹家への仕官と晩年

その後、政重は伊達家を出奔し、慶長元年(1596年)に佐竹義宣の下に仕官することとなります。佐竹家に仕官した後、彼は秋田に転封され、横手城を与えられ、秋田伊達氏の祖となりました。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では奮戦したが、翌年の夏の陣には病気のために参加しませんでした。元和元年(1615年)7月15日、重盛は63歳で死去し、その後は養子にあたる伊達宣宗が後を継いだ。

まとめ

伊達重盛は、伊達氏とその家臣として数多くの戦闘や政争に関わりながらも、その生涯には多くの波乱があった。家中の反発を乗り越えて一時的に国分氏を治めたものの、その後の伊達家の中での処遇や家族間の争いを経て、最終的に佐竹家に仕官することとなりました。政重(後の盛重)の名は、彼の政治的、軍事的な経歴と密接に関連しており、その晩年には新たな土地で再び名を馳せることとなったのです
伊達重盛の生涯と横手城

伊達重盛(または国分盛重)は、伊達氏の一族として数多くの歴史的出来事に関与した武将である。その生涯は波乱に満ちており、最終的には伊達家を離れて佐竹家に仕官し、秋田に移ることとなった。ここでは、特に彼の晩年に関わる横手城についても詳しく触れる。

横手城の建設とその重要性

横手城は、現在の秋田県横手市に位置する城で、重盛が佐竹義宣の家臣として秋田に転封された後、与えられた拠点であった。横手城の設立には、慶長5年(1600年)の佐竹氏の転封が関わっている。

佐竹義宣が秋田に転封される際、重盛も同行し、横手城がその拠点として整備された。横手城は、秋田地方の防衛拠点として、また佐竹氏の支配を確立するための戦略的な重要拠点とされていた。横手城は、山の上に築かれた城であり、周囲の地形を活かした防御に優れた城としても知られている。

重盛は、この横手城に移り住み、佐竹家の家臣として新たな地でその地位を築いていった。横手城は、当時の秋田藩にとって重要な行政・軍事の拠点であり、重盛の存在はその安定に寄与したと考えられる。

横手城と重盛の役割

重盛が横手城に拠点を構えた背景には、慶長5年(1600年)の佐竹義宣の転封が大きな影響を与えている。佐竹家が秋田に移される際、重盛もその一員として、秋田の地に足を踏み入れることとなった。横手城はその後、重盛の住まいとなり、彼の軍事的な拠点ともなった。

重盛が横手城に住んでいた時期には、佐竹家は新しい領地での支配を確立するために努力しており、重盛もその一翼を担った。横手城からは周囲の地域を監視し、佐竹家の支配を強固なものにする役割を果たしたと考えられる。また、重盛は横手城を拠点にして、周辺の治安維持や領民の統治にも関与していたことが想像される。

大坂の陣と横手城

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣において、重盛は従軍し、今福の戦いで奮戦したとされている。この戦いは、豊臣家と徳川家の間で繰り広げられた戦闘であり、重盛もその戦いに参加したことで、佐竹家の忠義を示した。翌年の夏の陣には病気のため参加しなかったが、横手城を留守にする家臣の一人として、城の守りを任されていた可能性がある。

横手城は、その後も佐竹家の支配下にあり、重盛が没した後もその重要性は続き、横手城周辺は秋田藩の中心的な地域となった。

晩年と横手城の遺産

元和元年(1615年)、重盛は死去し、享年63であった。彼の死後、横手城は佐竹家の支配下で存続し、後にその土地は伊達家の支配を受けたこともある。重盛が秋田において果たした役割と、横手城を中心に築いた基盤は、彼の遺産の一部として地域の歴史に刻まれた。

横手城はその後、時代とともに変遷を迎え、現在はその一部が遺跡として残るに至った。しかし、重盛の時代における横手城の存在は、彼が佐竹家のために果たした重要な役割を象徴するものであり、彼の軍事的・政治的な地位の証しでもあった。
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山菜図鑑 シャク

2025年03月31日 04時53分00秒 | 山菜

春一番に出てくる山菜といえばシャクです。あまりにも何処にでもあるので、あまり重宝されませんが、実はヨーロッパでは野菜として栽培されています。今回はシャクについて図鑑原稿を書いてみます。

山菜図鑑:シャク(杓)






学名: Anthriscus sylvestris (L.) Hoffm.

和名: シャク(杓)

別名: ヤブニンジン(藪人参)、ノラニンジン(野良人参)

科名: セリ科

形態: 草丈は50cm~1m程度になる多年草。茎は直立し、中空で稜があり、細かい毛が生えていることがあります。葉は2~3回羽状複葉で、細かく切れ込み、全体的に柔らかい印象です。春から初夏にかけて、小さな白い花を多数つけた散形花序を茎の先端に咲かせます。果実は細長い楕円形で、熟すと茶褐色になります。独特の甘く爽やかな香りがあります。

生息域: 日本全国の山野、草地、道端など、日当たりの良いやや湿った場所に自生します。ヨーロッパ、アジア、北アフリカを原産とします。

旬な時期: 春(3月~5月頃)の新芽や若葉が食用とされます。

効能: シャクには、ビタミンC、カリウム、食物繊維などが含まれています。古くから、健胃、整腸、利尿などの効果があると言われています。また、独特の香り成分には、リラックス効果や食欲増進効果も期待できます。

調理方法:

  • おひたし: 採取した若葉をさっと茹でて水にさらし、醤油やポン酢などでシンプルにいただきます。シャク独特の香りが楽しめます。


  • 和え物: 他の山菜や野菜と和えても
  • 美味しくいただけます。ごま和えや酢味噌和えなどがおすすめです。
  • 天ぷら: 若葉を天ぷらにすると、サクサクとした食感と香りが楽しめます。


  • 汁物の具: 汁物や味噌汁の具材としても利用できます。
  • 炒め物: 油との相性も良く、炒め物に加えても美味しくいただけます。

味: シャクは、セリ科特有の爽やかで甘い香りが特徴です。味は、ほのかに甘みがあり、わずかに苦味を含む程度で、比較的食べやすい山菜です。加熱すると香りがやや穏やかになります。

注意点:

  • 採取場所: 都市部や農薬が散布されている可能性のある場所での採取は避けましょう。
  • 鮮度: 採取後はなるべく早く調理しましょう。
  • 食べ過ぎ: 一度に大量に摂取すると、お腹を壊す可能性があります。適量を守りましょう。
  • アレルギー: セリ科の植物にアレルギーのある方は摂取を控えましょう。

似ている毒草:

シャクに似た有毒植物として、ドクゼリ (Cicuta virosa) が挙げられます。ドクゼリは、全体的にシャクよりも大きく、茎の基部が太く、空洞が隔壁で仕切られているのが特徴です。葉の切れ込みもやや粗く、独特の悪臭があります。ドクゼリは非常に強い毒性を持つため、誤って摂取すると命に関わる危険性があります。

また、トリカブトの仲間にも葉の形が似ているものがあります。トリカブトは花が特徴的ですが、葉の時期にも注意が必要です。

山菜採りの際は、図鑑や専門家の指導のもと、十分に注意して行うようにしてください。少しでも不安な場合は、採取したり食べたりしないことが重要です。

シャクを見分けるポイント:

  • 香り: 甘く爽やかな独特の香りがあるか。
  • 葉: 細かく切れ込んだ柔らかい葉であるか。
  • 茎: 中空で稜があるか。
  • 生育場所: 日当たりの良いやや湿った場所か。

これらの特徴をしっかりと確認し、不明な場合は絶対に採取・食用しないようにしましょう。安全に山菜を楽しむためには、正しい知識と慎重な判断が不可欠です。

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薬草図鑑 アオキ

2025年03月28日 13時53分00秒 | 薬草
裏山の黒松林にやたらアオキが群生しています。アオキ(青木)は、オスメス別株の植物であり、雌雄異株(しゆういしゅ)と呼ばれる特徴を持っています。これは、アオキの雄株と雌株が別々の個体に分かれて存在することを意味します。圧倒的に雄株が多いような気がします。アオキは園芸種でもあるので、薬草と思っていないと思いますが、実は古来より薬効が認められて利用されてきたのです。ここではアオキの素晴らしさに触れてみます。





特徴
アオキは、雄株と雌株がそれぞれ異なる役割を果たします。雄株は花粉を供給し、雌株は実を実らせる役割を担っています。春に雄株は小さな黄色い花を咲かせ、雌株は花が咲くと小さな緑色の実を結びます。この実は、秋に成熟すると鮮やかな赤色に変わり、非常に美しいです。







薬用としての利用
アオキの薬用部分は、主に葉や根です。雄株と雌株で薬効に違いがあるわけではありませんが、実を結ぶ雌株は観賞用としても重宝され、薬用として使用するのは主に葉です。薬用効果としては、抗炎症作用や解熱作用、利尿作用などがあり、これらの効能は伝統的に広く信じられてきました。

使用方法
アオキの葉を乾燥させて煎じる方法が一般的です。煎じたお茶として飲むことが多いですが、外用では煎じた液を湿布として使うこともあります。雄株と雌株のどちらを使用しても、薬効に差はありませんが、注意すべきはアオキの実が有毒であることです。実は毒性があり、食べることは避けるべきです。

結論
アオキは雄株と雌株が異なる役割を果たし、オスメス別株であるという特徴があります。薬用として使用されることが多いのは主に葉ですが、実を誤って摂取しないように注意する必要があります。アオキは美しい植物であり、薬用にも利用できるため、正しい知識と注意を持って活用しましょう。
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薬草図鑑 オウレン

2025年03月26日 03時27分00秒 | 薬草
裏山の可憐なオウレンですが、実は薬草です。以下にオウレンの薬草としての効能などまとめてみました。




オーレン(黄連)

学名: Coptis japonica Makino  
和名: オウレン  
科目: キンポウゲ科オウレン属  
生薬名: 黄連(おうれん)

特徴
オウレン(黄連)は、日本特産の薬用植物で、山地の冷涼・湿潤な木陰に自生または薬用に栽培される常緑の多年草です。冬を越しても葉を落とさないため、年間を通して緑を保ち、風景に彩りを加えます。オウレンの根茎は、特徴的に黄色を帯び、強い苦味を持つことで知られています。この苦味が、オウレンの最大の特徴であり、薬効の源です。

春の初めに、10cmほどの細長い花茎を伸ばし、その先に小さな白い花を2〜3個、五弁花が咲きます。花は非常に繊細で、白く清楚な印象を与えますが、その美しさとは裏腹に、薬効を持つ強力な成分が根茎に蓄えられています。

オウレンの葉は、セリに似た三裂した形状をしており、鮮やかな緑色が特徴です。葉の表面には細かい毛があり、葉裏はやや白っぽいです。これらの葉は、根茎を保護し、成長を促す役割も果たします。

生息地
オウレンは、主に北海道から本州の山林の下に自生しています。冷涼で湿潤な気候を好み、日陰で生育するため、主に森の中の湿った土壌で見られます。また、薬用植物として栽培も行われており、農地や薬草園でも見かけることができます。

薬効
オウレンの主成分は、アルカロイドのベルベリンであり、この成分がオウレンの苦味を引き起こす要因です。ベルベリンは、強い抗菌作用、抗炎症作用、健胃作用、整腸作用があることで知られています。そのため、オウレンは古くから消化器系の不調や感染症に対する治療薬として重宝されてきました。

漢方では、オウレンは苦味健胃整腸薬として用いられ、上半身の炎症や精神不安、イライラ、心窩部のつかえ、下痢などに対して処方されることが多いです。また、民間療法では、整腸作用を期待して使用されるほか、煎じ液を用いて目の洗浄を行うこともあります。目の疲れや結膜炎などの軽い目の疾患に対する民間療法として、煎じた液で洗眼することが一般的です。

利用方法
オウレンの薬用部位は根茎であり、この根茎は乾燥させて使用します。乾燥させた根茎は粉末にすることもあり、漢方薬の原料として、さまざまな処方に配合されます。また、民間では、煎じて服用する方法や、煎じた液を患部に塗布する方法が一般的です。

注意点
オウレンは非常に苦味が強く、その効能が強力であるため、過剰摂取は避けるべきです。特に、高濃度での使用は胃腸に負担をかけることがあるため、適切な用量を守ることが重要です。妊娠中や授乳中の女性、乳幼児に対しては使用を避けるべきです。また、他の薬との相互作用にも注意が必要であり、オウレンを使用する前には、必ず医師や薬剤師に相談することをおすすめします。

その他
「黄連」の名前は、根茎が節状に連なり、横断面が鮮やかな黄色であることに由来しています。この黄色い色は、オウレンが持つ特徴的な成分によるもので、薬効を示すサインとも言えるでしょう。オウレンは、古くから薬用植物として重用されており、「播磨国風土記」(714年)にもその名が記載されています。このように、オウレンは日本の伝統的な薬草として、長い歴史を誇ります。

オウレンは、その強力な薬効により現代でもなお利用されており、漢方薬や民間療法の中で重宝されています。
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行者ニンニク

2025年03月25日 03時21分00秒 | 山菜
自然コレクション山菜図鑑

1行者ニンニク
裏山の行者ニンニクがいい感じに成長しています。



基本情報
名前: 行者ニンニク(ぎょうじゃにんにく)

分類: ユリ科ネギ属

別名: アイヌネギ

特徴:
行者ニンニクは、強いニンニクの香りが特徴的な多年草で、深山の湿地に自生します。春には新鮮な若葉が食用として採取され、風味豊かな料理の食材となります。葉は広葉で、根元の茎部分には赤みを帯びていることがあります。成長には時間がかかり、数年かかってようやく葉が2枚以上に成長するため、収穫には慎重な管理が求められます。

名前の由来:
「行者ニンニク」の名前は、山岳修行を行う「行者」が滋養強壮のためにこの植物を食べたことに由来します。また、アイヌの人々にも古くから食用として親しまれており、「アイヌネギ」として知られています。

生育環境
行者ニンニクは、亜高山帯の針葉樹林に自生し、湿った場所を好みます。春は日光が当たる場所で生長し、夏には周囲の木々の陰で涼しい環境が必要となります。このような環境を整えた土地で、年々葉が成長し、最適な収穫時期を迎えます。




食用
採取時期: 4月下旬~5月下旬
行者ニンニクは、春の訪れとともに新しい芽を出し、若葉が食べごろとなります。特に4月下旬から5月下旬にかけてが収穫の最適期です。

採取方法:
葉が2枚以上開いている株から慎重に採取します。ナイフや刃物を使って、根元を少し残して茎を切り取ります。この方法で行えば、翌年も同じ場所で成長を続けます。採取時には生育地を守るため、必要以上に採取せず、環境に配慮しましょう。

食用部位: 葉、茎、鱗茎

味:
ニンニクに似た独特の風味があり、さまざまな料理に利用できます。生で食べることもできますし、加熱してもその香りと風味は失われません。

調理例:

行者ニンニクは、独特の香りと風味が特徴的な食材で、さまざまな料理にアレンジできます。以下に、行者ニンニクを使った簡単で美味しいレシピをいくつかご紹介します。

1. 行者ニンニクのおひたし
材料:




行者ニンニクの若葉(適量)
醤油(大さじ1)
みりん(大さじ1)
だし(適量)
ごま(お好みで)
作り方:

行者ニンニクの葉を軽く洗い、食べやすい長さに切ります。
沸騰したお湯で1〜2分間さっと茹で、冷水で冷まします。
だし、醤油、みりんを合わせて、調味料を作ります。
茹でた行者ニンニクを器に盛り、調味料をかけます。
お好みでごまを振りかけて完成です。
2. 行者ニンニクと豚肉の炒め物
材料:

行者ニンニク(適量)
豚肉(薄切り、100g)
しょうゆ(大さじ1)
酒(大さじ1)
みりん(大さじ1)
すりおろし生姜(小さじ1)
塩・こしょう(少々)
ごま油(適量)
作り方:

行者ニンニクを食べやすい長さに切り、豚肉は細切れにします。
フライパンにごま油を熱し、生姜を炒めて香りを出します。
豚肉を加えて炒め、肉の色が変わったら、行者ニンニクを加えます。
しょうゆ、酒、みりんを加えて味を調整し、全体が馴染んだら、塩・こしょうで味を整えて完成です。
3. 行者ニンニクとチーズの餃子
材料:

行者ニンニク(適量)
餃子の皮(10枚)
豚ひき肉(150g)
ニラ(少々)
生姜(小さじ1)
醤油(大さじ1)
ごま油(大さじ1)
すりおろしチーズ(適量)
作り方:

行者ニンニクとニラをみじん切りにし、生姜をすりおろします。
ボウルに豚ひき肉、行者ニンニク、ニラ、生姜、醤油、ごま油を入れてよく混ぜます。
餃子の皮に具をのせ、包んで形を整えます。
フライパンに少量のごま油を熱し、餃子を焼きます。焼き色がついたら、少し水を加えて蒸し焼きにします。
最後にすりおろしチーズを餃子の上にのせ、チーズが溶けるまで加熱して完成です。
4. 行者ニンニクの醤油漬け




材料:

行者ニンニク(適量)
醤油(100ml)
みりん(50ml)
砂糖(大さじ1)
作り方:

行者ニンニクの葉を洗って食べやすい長さに切ります。
小鍋に醤油、みりん、砂糖を入れて煮立たせ、しっかりと混ぜ合わせます。
火を止めて冷まし、行者ニンニクを漬け込みます。
冷蔵庫で1〜2日間漬け込んで味がしみたら完成です。ご飯のお供やお酒のおつまみにぴったりです。
5. 行者ニンニクと豆腐のサラダ
材料:

行者ニンニク(適量)
絹ごし豆腐(1丁)
きゅうり(1本)
醤油(大さじ1)
ごま油(小さじ1)
酢(小さじ1)
塩・こしょう(少々)
作り方:

豆腐は水気を切り、食べやすい大きさに切ります。
きゅうりは薄切りにし、行者ニンニクは細かく刻みます。
ボウルに豆腐、きゅうり、行者ニンニクを入れます。
醤油、ごま油、酢、塩・こしょうを混ぜて、ドレッシングを作ります。
ドレッシングをかけて、全体をよく混ぜたら完成です。
アレンジのコツ:

行者ニンニクは香りが強いため、少量でも十分に風味が楽しめます。量を調整しながら、料理に活かしてみてください。
チーズや肉と組み合わせることで、行者ニンニクの風味が引き立ち、コクのある一品になります。

注意点






毒草との見分け:
行者ニンニクに似た草として、毒草であるバイケイソウ(貝計草)があります。バイケイソウと葉の形状は似ているため、採取時に混同しやすいです。違いを見分けるためのポイントは以下の通りです:

行者ニンニクは強いニンニクの匂いがしますが、バイケイソウにはその匂いがありません。
行者ニンニクの葉には独特の香りがありますが、バイケイソウにはそれがないことを確認してください。
採取マナー:

採取禁止区域では絶対に採らないこと。
必要以上に採取せず、自然環境を保護しましょう。
根こそぎ採らないように心がけ、来年も同じ場所で再び収穫できるようにしましょう。
その他
栽培:
近年、行者ニンニクは栽培もされており、家庭菜園でも育てることが可能です。栽培を通じて、採取圧力を減らし、自然環境の保護に貢献することができます。

栄養価:
ビタミンやミネラルが豊富で、特にビタミンA、C、カルシウム、鉄分などが含まれており、滋養強壮に役立ちます。そのため、食文化においても重要な役割を果たしています。

アイヌ文化との関連:
行者ニンニクは、アイヌの人々にとって重要な食材であり、アイヌネギとして古くから利用されてきました。栄養価が高く、肉や魚と一緒に調理されることが多かったです。
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雪割草とミスミ草

2025年03月24日 04時57分00秒 | 
ミスミ草が咲き始めました。以前は雪割草だと思っていましたが、それは(写メ)はミスミ草だと謎の科学者に言われた,違いも分からないまま数年が経ちました。そこで雪割草(ユキワリソウ)とミスミ草は、どちらも日本の山野に自生する美しい植物ですが、いくつかの特徴的な違いがありますので、以下にその違いについてまとめました。

雪割草とミスミソウは、しばしば混同されることがありますが、厳密には異なる概念です。以下に、それぞれの違いについて詳しく解説します。

雪割草(ユキワリソウ)

  • 雪割草は、キンポウゲ科ミスミソウ属の植物の総称です。
  • 具体的には、ミスミソウ、オオミスミソウ、スハマソウなどを指します。
  • 早春、雪解けとともに花を咲かせることから、この名が付きました。
  • 花の色や形、葉の形などに多様なバリエーションがあり、園芸の世界で人気があります。


ミスミソウ(三角草)

  • ミスミソウは、キンポウゲ科ミスミソウ属の植物の一種です。
  • 葉の形が三角形に似ていることから、この名が付きました。
  • 雪割草の代表的な一種であり、雪割草を語る上では外せない花です。
  • 雪割草は、ミスミソウを含む総称として使われる場合と、園芸品種の総称として使われる場合があります。



両者の関係性

  • ミスミソウは、雪割草という大きなグループに属する一種です。
  • つまり、「雪割草=ミスミソウ」ではなく、「雪割草⊃ミスミソウ」という関係になります。
  • 園芸の世界では雪割草という名前が広く使われ、親しまれています。

主な違いのまとめ

  • 雪割草:キンポウゲ科ミスミソウ属の総称
  • ミスミソウ:キンポウゲ科ミスミソウ属の一種

雪割草は、早春の雪解けとともに咲く美しい花であり、その多様な姿は多くの人々を魅了します。



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タブの木

2025年03月23日 10時57分00秒 | 薬草
裏山にタブの木が結構あります。もともとタブノキというのは、古代では信仰の対象となった樹ともいわれ祖先はその樹霊を尊び大切にしてきました。それが霊(タマ)の木であり、それが  タモ、タブ、タブノキと変化したとも考えられているそうです。




万葉集の大伴家持の歌、「磯の上の都万麻を見れば根を延へて年深からし神さびにけり」の都万麻もタブノキだと言われています。これは意訳すると、(磯の上にそびえ立つタブノキは根を深く広げて年数が経ちなんと神々しいものだ)というものです。昨日のタブノキにも神々しさを感じました。

かつて今のように人間の都合だけで生活していなかった時代、自然の時の流れと自然の音と自然のめぐりと自然のひびきに生きていたころ、私たちは生き方のお手本として悠久の哲学者ともいえる巨樹に沢山のことを見習い教わり心を磨いていたのかもしれません。
裏山は中世より小さな城柵のあった可能性があります。おさ袋集落に佐々木源太左衛門という浪人が隠棲していた口伝もあり,鳥海弥三郎が由利の残党の掃討作戦を行なっていた時、天鷺の日向入道雲海の嫡男の長範丸ございます乳母と一緒におさ袋の佐々木源太左衛門に囲ってもらって後佐々木伝八と名乗っていたという口伝もあります。
月山神社がおさ袋にあるのも納得できます。
椿の他タブの木があるのも人為的です。

タブノキはクスノキ科の常緑高木で、樹高が30メートルにも大きな樹木です。暖地の樹木のタブノキは、本州、四国、九州、沖縄の主として沿岸部に生育しています。
タブノキの北限は青森県ですが、タブノキ林としての北限は、日本海側では由利本荘市親川地区とされています。
山形県や秋田県の沿岸が対馬海流の影響を受けて温暖な気候であることが、暖かい気候を好むタブノキが生育できる理由です。
中でも、にかほ市前川のタブノキ(秋田県指定天然記念物)は、樹高約20メートル、幹回り約5メートル、樹齢は推定600年の大木です。
タブの木のある所に神ありかも^_^
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1万石の大名の年収?

2025年03月19日 03時49分00秒 | 郷土史
1万石大名の年収:現代の価値に換算してみた

「殿、ご立派でございます!」時代劇でお馴染みのセリフですね。江戸時代、大名の格式を示す指標として使われた「石高(こくだか)」。中でも「1万石」は、大名として認められる最低ラインであり、一つの領地を治める堂々たる存在でした。しかし、「1万石」とは、現代の貨幣価値に換算すると一体どれくらいの年収に相当するのでしょうか?興味深いこの問いについて、様々な角度から考察してみたいと思います。



米価から見る1万石

まず、石高とは、その土地で収穫される米の量を基準としたものです。1石は約150キログラム、これは成人が1年間に消費する米の量(1日3合として計算)に相当します。

現代の米価を参考に単純計算してみましょう。2020年代の米価を1石あたり約75,000円と仮定すると、1万石は大体7億5,000万円となります。一見すると、かなりの高収入に思えますね。
ところがこれを2025年現在の米の値段に換算すると約2倍に膨らむのです。という事は15億円になります。よって単純に米価で換算はできません。




現代の賃金水準から見る1万石

しかし、別の視点からも考えてみましょう。当時の米は単なる食料ではなく、貨幣としての側面も持っていました。そこで、現代の賃金水準に照らし合わせてみます。

大工などの職人の手当てなどで試算によれば、1石を現代の価値に換算すると約270,000円に相当するという考え方もあります。この場合、1万石は大体27億円という、さらに大きな金額になります。

このように、算出方法によって1万石の現代的な価値には大きな開きがあることがわかります。

東成瀬村の財政収入と比較してみる
では、この金額は現代社会においてどの程度の規模なのでしょうか?秋田で最も人口の少ない市であるn市の2024年代の財政収入は約47億円です。1万石大名の年収をどちらの金額で捉えたとしても、自治体の税収と比較すると、必ずしも巨大な規模とは言えないかもしれません。

石高の半分は生産者の取り分
しかもここで重要なのは、石高の全額が大名の収入になったわけではないということです。一般的に、収穫された米の半分近くは年貢として生産者である農民たちの取り分でした。
つまり、1万石の大名の手元に入るのは、その半分程度。そこから家臣の給料を支払い、治水工事や道路整備といった領地の維持管理を行い、さらに江戸幕府から課せられた様々な義務を遂行する必要があったのです。

大名も財政難だった?
驚くべきことに、江戸時代の大名の多くは「大名貸」と呼ばれる金融業者からの借金に苦しんでいました。豪華な暮らしをしているイメージがあるかもしれませんが、実際には、1万石大名に限らず、多くの大名家が慢性的な財政難に陥っていたと考えられています。

まとめ

1万石大名の年収を現代の貨幣価値に換算すると、米価基準で約15億円、賃金水準基準で約27億円という幅が出ました。どちらの金額で捉えるにしても、現代の自治体の税収と比較すると、その規模感が見えてきます。
しかし、石高の半分近くは農民の取り分であり、残りの収入から家臣の給与や領地の維持費、幕府からの負担などを考えると、大名の財政状況は決して楽ではなかったようです。




私たちが時代劇で見る華やかな大名も、現代の会社経営者と同じように、常に財政難に頭を悩ませていたのかもしれませんね。

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裏山散歩

2025年03月16日 07時47分00秒 | 
昨年より春が遅いのかも。でもオーレンは咲き誇っています。
オーレンは薬草です。




オウレンは漢方薬としてよく使われる生薬植物で、その効能は非常に多岐にわたります。
1. 心中の煩悸を治す: オウレンの苦みが胸苦しいものを治すとされています。
2. 清熱瀉火: 実熱証の心火や胃熱を冷ます効果があります。
3. 清熱燥湿: 熱を冷まし、強力に湿を除く効果があります。大腸湿熱による発熱、腹痛、下痢などに用いられます。
4. 清熱解毒: 熱毒を冷ます効果があります。熱毒による温病、細菌性下痢、皮膚化膿症、火傷、咽頭腫脹などに用いられます。
5. 鎮静解熱作用: オウレンには鎮静作用があり、不眠、イライラ、ノイローゼなどに用いられます。
また、オウレンは大苦・大寒で瀉火・燥湿・解毒の効能があり、チフスなどの流行性熱性疾患、細菌性腸炎、肺結核、嘔吐、鼻血、下血、咽喉炎、口内炎、湿疹などにも用いられます。
ただ、採取するにはかわいそうぐらい可憐です。ミスミソウはまだ開花していません。あと1週間後位だろうか。




更に行者ニンニクも芽を出しています。




後アオキが群生しています。この山は明らかに古い館後だと思います。椿の自生,竹林など,ただの農民の居住地ではありません。おさ袋に1326年に鳥海弥三郎から逃れたきた天鷺城主の嫡男長範丸が浪人の佐々木源太左衛門に囲ってもらったのがおさ袋と言われています。今年は裏山を徹底調査したい。

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秋田を帝都にを唱えた人物

2025年03月15日 04時17分00秒 | Weblog
明治維新後ある人物が帝都を秋田に移すべしと唱えていました。その人物とは佐賀藩主だった鍋島直正です。



鍋島直正が北進論を唱え、帝都を秋田に移すべきと論じた背景には、当時の国際情勢と国内情勢が複雑に絡み合っています。

1. ロシアの南下政策への危機感

19世紀後半、ロシアは南下政策を積極的に進めており、日本を含む東アジア諸国にとって脅威となっていました。
鍋島直正は、ロシアの南下政策を警戒し、日本の防衛体制を強化する必要性を強く感じていました。
特に、ロシアが蝦夷地(北海道)や樺太に進出する可能性を危惧し、北方防衛の重要性を訴えました。
2. 秋田の地理的優位性

鍋島直正は、秋田が北方防衛の拠点として地理的に優位であると考えました。
秋田は、蝦夷地や樺太に近く、ロシアの南下を阻止するための防衛拠点として適していました。
また、秋田は比較的安全な場所であり、万が一の場合でも帝都を移転することで国家の中枢機能を維持できると考えました。
3. 国内政治の混乱

幕末の国内政治は混乱しており、尊王攘夷運動や倒幕運動が激化していました。
鍋島直正は、国内政治の混乱を収拾し、国家の統一を図る必要性を感じていました。
帝都を秋田に移転することで、国内政治の安定化を図ることができると考えました。
4. 鍋島直正の政治的意図

鍋島直正は、佐賀藩の藩主として、幕末の政治において重要な役割を果たしていました。
北進論を唱え、帝都移転を主張することで、自身の政治的影響力を高めようとした可能性があります。
また、佐賀藩が北方防衛において重要な役割を担うことで、藩の地位向上を図ろうとした可能性も考えられます。





鍋島直正が北進論を唱え、帝都を秋田に移すべきと論じたのは、ロシアの南下政策への危機感、秋田の地理的優位性、国内政治の混乱、そして自身の政治的意図などが複雑に絡み合った結果であると考えられます。

鍋島直正の主張は、当時の国際情勢と国内情勢を反映したものであり、日本の近代史において重要な意味を持っています。

補足

鍋島直正の北進論は、後の日本の北方政策に影響を与えたと考えられています。
明治政府は、蝦夷地を北海道と改称し、開拓を進めることで北方防衛を強化しました。
また、日露戦争においては、日本の勝利によってロシアの南下政策を阻止することに成功しました。しかし,ノモンハン事件でソ連の本当の強さを思い知り北進論から南進論へと転じ,それが太平洋戦争へと進んでしまったのである。もし、北進が推し進めソ連に敗北していたら日本は社会主義国になっていたのかもしれないし,ソ連に勝っていたら,首都は秋田都なんてことになっていたかもと思うとお面白いのである。
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