年単位で腹痛が続いている。我慢できない痛みではないので、医者にはいかなかった。放っておいた。

無意識のうちにお腹をさすっている。「お腹が痛い」口にも出して言っているかも知れない。近くにいる妻は、無意識の私の言動をいつも聞いている。

それで、病院で診てもらうよう強く言われた。

 

午前中に病院に行った。採血と検尿をし、そしてCTを撮った。結果は来週。

胃カメラも撮ることになった。明日ということだったが、明日は近くの寺院、同宗派の法音寺ご住職、斎藤明憲僧正の葬儀に随喜することになっている。午前中に終わるだろうが、午後は当山檀家さんの葬儀がある。

明日ダメだと、来月の10日になると言われた。金曜日は麻雀の日なので、困ったなと思ったが、胃カメラの順番もあるので「はい」と言って来月の10日に鼻から胃カメラを入れて検査。鼻がダメなら口からと言っていたが、どちらにしても異物が入るのは苦手だ。鼻からの方がやりやすいのかな?前は口からやって、どうしても受け付けなかったことがあった。この齢になるまで胃カメラはやったことがない。

 

明日の明憲僧正の葬儀の案内が来ている。

「この度、支所下278番 法音寺第12世住職 斎藤明憲僧正が

令和6年4月9日、87歳にてご遷化なされました。

葬儀の日程は下記の通りでございます。

 

令和6年4月24日(水)午前10時30分より

 

※随喜でのご参加いただけます方は改良服、支所揃い折五条にてお願いいたします。

 

随喜、つまり喜び随う(目上の人について行く)は葬儀にはふさわしくない言葉ではないかと思ってしまう。

 
随喜の功徳
 

寺院社会では一般在家の方々にとっては耳慣れない、難解な言い回しがよくなされます。「随喜」もその一つでしょう。

 

他宗派の大徳やご来賓をお迎えして法要などを行った際、奉行(MC・司会進行)役のお坊さんが「本日はご多用にも関わりませず、ご随喜賜りましてまことにありがとうございました」などと最後に挨拶を行います。ここにいう「随喜」は、法会に列席いただき、ともに経典を読誦し、焼香いただいたことへのお礼の意味と解釈できます。慶事での挨拶のなかで使われるならば何の疑問も感じない訳ですが、これが弔事の場合であっても同じ文言なので、在家の方にとっては、喜ぶとは何事ぞとなる訳です。私も前からそう思っていました。

意味するところを考えてみました。

 

コトバ辞典では

① 仏教語。他人のなす善を見て、これにしたがい、喜びの心を生ずること。転じて、大喜びをすること。

 

② (①から転じて) 法会などに参加、参列すること。

 

導師や職衆が所依の経典を読誦、真言宗なので理趣経や諸真言を唱え、同宗の小生も一緒に唱えることが、喜びとなるということなのだろう。法悦という。

明憲僧正の遷化されたことは寂しく悲しいことだが、そのことに対し確りと回向することが大切であり、それに随い所依の経典、諸真言をともに唱えることが随喜という言葉を使うのだろう。

明日は職衆ではないが「二箇法要」を持って行こう。