本日のテーマ 

【喜びの質】

 

 

「質」は、さまざまなところで使われています。

商品や製品の場合、そのものの良否、粗密の差を表す…

接客の場合、マニュアル通りの接客と心を込めた接客などの差を表す…

 

 

わたしは、書籍『「ひと」として大切なこと』から「喜びの質」を学びました。

元ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子氏は著書『「ひと」として大切なこと』(PHPより2005年発行)の中で、喜びの質について、マザー・テレサを例に挙げ、このように述べています。

 

(渡辺和子 1927—2016年)

 

「貧しい人々の中でもっとも貧しい人に仕える修道会をつくり、今、皆さんがご存じのようなことをしていらっしゃいます。食べるものといったら、チャパティーという野菜を中に入れたメリケン粉を焼いたもの。朝は4時半に起き、お祈りをなさって、それから、みなし子、ハンセン病、ホームレス、死にかけの人、そういう人の世話を毎日毎日していらっしゃいます。それによってなにが得られているか。お金も名誉もなにも得られない。一方、自分の体は擦り減っていくばかりです。にもかかわらず、働いている人たちの顔は喜びに溢れているのです。今、日本の国で、飽食の時代に、おいしいご馳走を食べて、毛皮のコートに身を包み、外車を乗りまわし、立派な家に住んでいる奥様に、あの喜びの顔は見られません。その方たちの笑顔というのは、マザー・テレサや、そのシスターたちの笑顔と質が違います。それこそ、どこかの豪華なパーティーに招かれた喜び、誰々さんよりもっと高価な毛皮を手に入れた喜び、外車を買え替えた喜び、子どもが東大に入学した母親としての誇りの喜び。その喜びと、マザー・テレサのシスターたちが、一人の生き倒れの人がその手の中で『ありがとう』と言って安らかに死んでいく、その顔を見ながら、『ああ、良かった、あんなに辛い思いをして生きてきた人が、死ぬ時に“ありがとう”と言って死んでくれた』『ああ、これで魂を一つ神様のもとに安らかに旅立たせることができた』と思う時の喜びと同じでないのです。またみなし子を食べさせてやって、そのお腹をすかした子が嬉しそうにパンを食べている、その姿を見て自然にほころぶシスターたちの喜びの顔、その喜びとは質が違うんですね。皆さん方もなにかの時に考えてみてください。自分の喜びは、どういう質の喜びか」

 

 

喜びとは、その人の心の質を表すような気がしました。

心がどんなことで喜ぶか……。

喜びの質は、本人が何を価値としているかで決まるのではないでしょうか。

 

「自分だけの喜びであれば、自分のことしか考えていないことになり、質の高い喜びとは、人が喜ぶことが自分の喜びとなる」

 

そのようにわたしの心は思え、

質の高い喜びを感じられる生き方に価値を感じるのでした。