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漢倭奴国王か、漢委奴国王か。

2024年03月22日 | Weblog

これは、封泥印といって、文書に押印する印ではなく、文書を封緘する凾に掛けた紐の結び目に、粘土で封緘し、そこに押印するので、印の文字が、封緘の泥のうえに浮かびでるものである。封泥は割れやすいため、文書に押す印よりも偽造が難しい。問題は、この金印の発布主体は、後漢王朝である。そして、この印の封泥を照合する出先官庁は、朝鮮半島におかれた楽浪郡の郡守である。後漢王朝は、新たに再興された劉氏王朝であるため、周辺国家への外交関係の証としての書簡外交のために、封泥印を新たに発給する必要があった。ところが、日本列島は、100あまりの小さな王国が群立しており、統一する中央集権の王朝が存在しなかった。そこで、漢王朝の日本列島の情報収集の機関として、博多湾の志賀島に、100分の1にあたる奴国王に委任統治権を与え、日本列島の情報を朝鮮半島の楽浪郡を経由して、皇帝にもとに報告する通信システムを確立する必要があった。当時、倭人の社会経済生活圏は、朝鮮半島の内部にもあり、その動静次第では、大漢帝国の朝鮮半島への殖民政策に危機を及ぼす可能性を秘めていた。そこで、倭人の民族統合が、アンチ大漢帝国の方向で進むかのか?、それとも大漢帝国の朝貢交易システムに属する親漢派による日本列島の統合へと進むのか?、それとも、100あまりの小さな王国が群立する分散型の持続なのか、この金印が発行されてから、200年間、大漢帝国の朝鮮半島・日本列島への情報工作が持続した。つまり、大漢帝国が崩壊し、魏晋政権が樹立されると、この封泥印は、官印としての役割がおわることになる。ほぼ200年は、官用の通信システムのなかで、生きた封泥印として機能したのである。和名を漢字の音を借り、漢文に外来語である和語を交えた情報文書は、大漢帝国の朝鮮半島の郡で一旦、集約される。その情報通信システムが、大漢帝国の分裂のために、南方の呉国に繋がる勢力と、魏晋政権に繋がる勢力との路線闘争が展開された。その時点で、この金印は、遺物となった。

では、「漢の倭の奴国王」と解読する定説には、大きな弱点がある。『詩経』当時は『詩』とのみいうが、漢王朝の聖なる書『詩』に、「委蛇」という言葉がある。ここから、この封泥印の紐を通す穴を飾る蛇紐に、蛇の表象が使われていることに誰も注目していない。大漢帝国では、儒学の聖典が憲法であり、外交も儒学典拠が価値体系の頂点にある。そして、「委質」という法律用語が太古からあり、「質」をとり「委任統治」する仕組みを「委」という。大漢帝国が「奴国王」を「委」に任じるという官印であることを示している。「委」を「倭」の省略ではなく、「委質」の関係にあるから、「人」たす「委」として、新たに「倭」という固有名詞が作られたのである。「倭」という文字は、秦の始皇帝が全土統一をする前の文献にあれば、私の説は撤回する。漢王朝の時代に、「倭」からニンベンを除いたのではなく、「委」にニンベンを加えたのである。こうした間違った定説を世に流布させた東洋史学者は、彼らの時代には、中国の古典文献をすべてコンピュータに一文字ごとに記憶させたデータベースをもたない。私が、「詩」にある「委蛇」という典拠をみつけたのは、一文字ごとの索引を駆使しただけである。また、「委」の意味は、質という担保と交換に統治権を「委」する仕組みの法律用語であると、気がついたのも、一文字ごとの索引のお陰である。江戸期、明治期のこの金印の時代から、古代史研究は天に馬が駆けるほどの進歩がある。「漢王朝が奴国王に委する」印章として理解すれば、蛇紐の謎も解読できる。

 

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