植松 努と自信について

自信について。それが必要なのには同意だが、その持ち方をこのやうに考へた事がなかつた。目から鱗、納得した。

自信なんて、字の通り「自らを信ずる」といふ事なので、それを得る為に何の根拠も費用も新たには掛からない。単に自分を信じれば良いだけの事と思つてゐたが、一方で「それが難しい」といふ人もゐる。

この植松さんのやうに御爺さんや御婆さんの存在が影響する事もあるだらうけれど、本質的には「その人が存在してゐる」といふ事実の裏には祖先からの命の繋がりがある。産み育て、護り抜いてきた命の歴史がある。

目に見えないものを否定する人が多い昨今、自身が生まれて以降、その目で見る事のできない遠つ祖先の御姿ではあるが、見る事はできずとも決して動かぬ現実として、我らの紐帯はある。

人は存在してゐるだけで、その事実の上に自信を持つて良いし、持つべき義務がある。御恩と仇には報ゆべし。

それでも、どうしても無理なんだ、自分の事が嫌いなんだ、と今、本気で思ふ人といふのは、明日には生きて存在してゐない。
淘汰される。

ある人にとつては「世界は残酷」なのかも知れない。それも一面の事実だらうと思ふが、その残酷な世界に生まれた我々は本人が自覚する、しないといふ以前の前提として「生まれし日より覺悟完了」してゐるのだ。


『子連れ狼』より
「我らの生命は絶える事なく 永遠(とは)に不滅なのだ。例へ皮破るるとも 血噴くとも狼狽へるな。父の五體倒るるとも怯むな。父の眼閉ぢらるるとも、その口開かずとも恐るるな。

生まれ変りたる次の世でも父は父。次の次の世でも我が子はお前ぞ。儂らは永遠に、永遠に、不滅の、不滅の父と子 なのだぞ。」