森永卓郎さんの『ザイム真理教』を読んだ。
霞が関。その中でも、特に、財務省の力は日本という国を揺るがすほどの権力をもっているという。
ほとんど東大法学部卒だという頭脳集団に勝てるわけがないなぁ。
以前、名古屋大学法学部卒の人でも、頭の回転が良すぎて、会話についていくのに必死で、会話を楽しめなかったという体験を書いたことがあるけれど、東大法学部なんてそれよりももっと回転が速いはず。なおかつ、そんな人ばっかりの集団なんて、コンピュータなみだと想像する。
政治家もきっとしんどいだろう。
仮に、東大法学部卒の政治家であっても、東大法学部卒が束になってかかってきたら、口も戦略もかなわないだろう。
森永卓郎さんも東大法学部卒で、当時の専売公社に就職された。当時、専売公社は、大蔵省(今は財務省)の下部組織みたいなもので、全て、大蔵省の言いなりであったという。
大蔵省の奴隷であったという表現をされている。大蔵省の言うことには絶対服従であったと。
深夜零時の残業は当たり前であったが、深夜2時頃に大蔵省の主査に電話を入れて、その時に主査の機嫌が損なわれると徹夜になるから、超ドキドキの電話であったとか、予算編成の時期に、大蔵省の主計局の主査が廊下で待機している森永さんに質問した時に、名前を呼ばれて数秒以内に主査の机の前に駆け付けないと怒鳴られる・・・などなど。
不適切にもほどがあるという時代でも、最高級の不適切な空間で森永さんは働いていらしたようだ。
〇〇ハラスメントも時に行き過ぎて縛られ感も無きにしも非ずな今の時代、財務省も時代とともに人権意識は進化してるのだろうか。
森永さんによると、大蔵省という官僚権力のトップ集団は、どうやら、老後の自分たちのお金をゲットすることがお国のことよりも優先させてしまいがちであったみたいだ。
消費税増税反対派の政治家たちが、そのトップの座についたら、財務省の頭脳集団のザイム真理教にしっかり洗脳されてしまうらしい。
枝野さんしかり。岸田首相しかり。
私も、しっかり、洗脳されていたわ。
少子高齢化で、今の若者が高齢になる頃、年金はもらえないかも・・とか介護してもらえるのだろうかという大きな不安を、増税によって賄うと言われたら、増税も仕方ないか・・・と思えないでもない。
しかし、おバカな私でも、給料が全然上がらない状況で、ただでさえ3割くらい値上がりしている食料品や日用品で家計がひっ迫しているのに、増税したら、いろんなものを買い控えしてしまうので、結局、経済が回らなくなって、悪循環になるんじゃないかって想像できる。
森永さんは、消費税なしでも、日本は十分やっていけるっておっしゃる。
岸田首相が提唱する異次元の少子化対策も財源はどうするの?って感じで、恐怖しか感じない。結局、庶民のなけなしの懐から搾り取るようなイメージしか湧かない。
搾取・・・。
ザイム真理教に洗脳されなかった唯一のトップが、安倍首相であったそう。
紆余曲折あって、2度の消費税増税を行った首相ではあったが、窮地に追い込まれての増税であったという。賛成ではなかったけれど、せざるを得なかった・・・。
好きか嫌いかは別にして、洗脳されなかったというだけで凄いことなのかもしれない。
私たちは、専門外のことは専門家のいうことをすんなり信じてしまいがち。専門家が右ですよって言えば、右を向いてしまう。
わたしもそう。
仕事では、病気のことに関しては、お医者さんという専門家に委ねる。熱量のあるお医者さんの意見には飲み込まれる。例え、心の中で、そうかなぁって思うところがあっても、表現しないし、従わざるを得ない空気の中で、息をする。
ただ、ここに落とし穴がある。
専門家にもいろんな流派があるということだ。
だから、セカンドオピニオンではないけれど、その流派と正反対の意見を述べる流派のお話も聞いてみようというスタンスでいることが大切なのかもしれない。
右の端っこと左の端っこの意見を聞いたうえで、自分の直感で判断する。
今の時代、ネットで右の端っこと左の端っこの情報って、手に入りやすい。
学校の問題点は、右の端っこと左の端っこの情報提供をしないってこととその両端っこを知ったうえで意見を交わす機会がないってこと。
まぁ、文部省さんはそんなことを好まないかもしれないかなぁ。
森永さんが言っていた。
入庁したばかりの若手の財務省職員たちも、いつしか風化していくと・・・。
自分の周りの人間が、誰しもひれ伏してくる。自分の命令には絶対服従だ。という環境の中にいると、あっという間におかしくなっていく。私自身も大蔵省と同じ病気にかかってしまった。
と、森永さんは書いている。
なるほど、病気か~~~。
カラダの病気と違って、心が病気レベルにまでなると、よくなるのって、なかなか難しいと思う。
思うに、心の病気って、自分を客観的に見れないときになってしまうんじゃないだろうか。
逆に、自分を客観的にみれるようになれたら、心の病も良い方向に向かっていくのかもしれない。
認知行動療法にしても、ピアカウンセリングにしても、自分を客観的に見れるようなツールだ。
カラダを客観的にみることはできる。骨折したら、ギプスが取れたら、積極的にリハビリをしようと思える。でも、心が骨折したら、客観的にみるという心が骨折しているのだから、客観的にみるというその客観的な見方ができずらい。それを、地道に、他者の力を借りながら、ゆっくりと気づいていくための治療をしていく。
ずっと、周りからチヤホヤされて、自分の一言で、思いどおりに人が動く経験を重ねていくとやがて、人間は、全知全能の神であると勘違いしてしまう。そこに、ザイム真理教の源流があるのだ。
とも、森永さんは書いていた。
人間ってそういうやつだ。
私だって、きっと、同じ病気にかかってしまうだろう。
不安に駆られて心が骨折する人もいれば、チヤホヤされて思いどおりに行くことで心が骨折しているのに気づかないで生きていく人もいる。
全然、思いどおりにいかない人生の私にしてみれば、思いどおりに行く人生を歩いている人って、めちゃくちゃ羨ましい。
でも、思いどおりに行き過ぎても危ない。