(M編集より・・・)
堀家プロの取材が少し伸びており、記事の掲載が遅れています。
26日水曜日より、掲載を再開しますので、再度ご購読いただきますようお願い申し上げます。
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(M編集)
ビリヤードが厳しい時代だったのですか?
(堀家プロ)
ブームと言ってもそんなに長く続いたわけではなく・・・2年ぐらいだったよ。
僕がお店を始める頃はもうブームが去った後だったんだ。
でも、ビリヤードを辞める訳ではないし、小さなお店だったから、なんとか自分達が食べていける分だけでも稼いでいければいいと思っていたんだ。
(M編集)
自分達・・・?
うん?
そういえば、お店を持つと言うことは生活が変わることですが、プライベートは変わったのですか?
(堀家プロ)
・・・(苦笑い)
--- (語り) ---
お店をオープンして2年目。
当時お付き合いをしていた女性との間に子供が出来た。
20歳の頃からの付き合いで7歳年上の女性。
聡臣は
「僕にはビリヤードしかない。決して辞めない。どんなに辛い事があってもビリヤードを続けていく。
それでもいいというなら、一緒なってもいい」
相手に伝えた。
女性は聡臣に答えた・・・
「私が頑張ればいいんでしょ」
自分の人生を共に歩む人を選ぶのだから、女性としては安定した収入のある仕事についてほしいと願う人が多いかと思う。
しかし、聡臣の選んだ女性は、聡臣が何を言っても変わらないと悟ったのだろうか・・・共に歩いていく道を選んだのだった。
8年の交際を経て結婚。
聡臣28歳。
そして男の子を授かった。
子供が出来てからは、お店の仕事も生活と密着していることが多々あった。
子供が小さく子守をしながら店にいた時のこと。
子供が良く寝ているので、テーブルの上に寝かして他のお客様の相手をしていた。
暫くすると目を覚ましたのか子供もがぐずり始めた。
「よしよし・・・」
聡臣は子供を抱き上げると、テーブルのラシャの色が変わっているのが目に入った・・・
そして、子供のお知りのあたりがひんやりとしている・・・
「あーーーーっ!!!ラシャに子供のおしっこが~」
現在のパンパースのようなオムツはなく布製のオムツだったので、おしっこも漏れやすかったのだ。
子供は悪くないです。テーブルの上に寝かせておいたのが悪い・・・
言うまでもなく、当然ラシャは交換するはめになったのだった。
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(M編集)
プロ2年目にして、ついに「自分のお店」を持ったのですね!
2年で持つというのは早い感じもしますが・・・他のプロもプロになってからお店を持つまでそんなに早かったのですか?
(堀家プロ)
周りのプロの選手はⅡ世が多いんだよ。つまり、両親がお店を営んでいると言うこと。だからほとんどの選手がお店を持っていたんだ。
たしか・・・島田選手ぐらいかな・・・自分でお店を始めたのは・・・
(M編集)
そうだったのですか・・・それでは『お店を持つ』のが当たり前の様になりますね。
(堀家プロ)
そうなんだ。
自分のお店を持つ!と言うことばかり考えていて勢いもあってお店を始めたから、「経営」にという点については、まだまだ素人だったから本当に大変だったよ・・・
--- (語り) ---
錦糸町(石原町)に堀家プロ経営の『トリプル』がオープンした。
聡臣が学生時代にアルバイトをしていた赤坂の「トリプル」はすでに閉店していたので、店名を譲ってもらった。
聡臣は、自分のお店を始めると同時に住まいも「恵比寿」から「錦糸町」に引越ししてきた。
お店だが・・・
テーブルは、3C-2台、ポケット-2台、四つ球-台 計6台を設置。
『ハスラー』の映画がブームの火付け訳となり、第1次ビリヤードブームが到来。ブームで増加したのはポケットで遊ぶ人だった。
ブームをきっかけに関東のビリヤードの主流が『四つ球』だったのが『ポケット』に変わり始めた。
そんな時代の背景もあり、スリーのプロのお店とは言え、『トリプル』もポケットを2台設置した。
しかし、ブームは1~2年程しか続かず、聡臣が『トリプル』をオープンする頃はブームが下火になってきていた頃。
ビリヤード場の経営としては厳しいスタートとなったのだった。
--- (解説) ---
★スリーテーブルの普及
現在のビリヤードテーブルは外国製が主流とているが、ビリヤードという遊びを日本で始めた頃は、外国製のテーブルは日本に入ってきておらず、日本で作られたテーブルばかりだった。
ラシャは今のラシャに比べてかなり厚く毛羽立った感じのものが多かった。
スリークッションが普及し始めた当時でも、『ヒーター』なんていうものは入っていなかった。
「スレートが温まれば転がりがよくなる」
そんな情報が入り、スリーのテーブルの下に『火鉢』を入れてスレートを温めたりした店もあると聞く。
また、
「アイロンを掛けてラシャの毛羽立ちを少なくして転がりを良くする」
と言う情報が流れ、ラシャにアイロンを掛ける店も増えた。
『アイロン』というと一般手にイメージするのが現在ある「スチームアイロン」のような電気式のものをイメージするだろう。
しかし、当時、ラシャにアイロンがけをすると言うと、鉄のアイロンで行っていた。
ストーブなどにアイロンを乗せてで熱くし温ていた。
鉄のアイロンは結構重いので、その重さがアイロンの役目をしていた。
↑ 鉄のアイロンのイメージ
技術が改良され、『クッションヒーター』というものが考案されたのが、昭和55年頃。
フレームとクッションの間にニクロム線を入れて電流を通し、クッションを温めるという方法だ。
日本のメーカーが苦心して考え出したアイデアだった。
昭和60年を過ぎると、外国製(ヨーロッパ製)のスリーテーブルが入るようになってきた。
最初に入ってきたのが 「バンダーレ」。入ってきた当時はまだヒーターが付いていなかった。
その後、「フルホーブン」→「ガブリエス」→「ソーレンソファード」→「シュビロット」とヨーロッパのメーカーが入るようになってきた。
同時にそれぞれの種類が入ってくるのではなく、その年の『全日本スリークッション選手権』で使われたメーカーがその年に入荷・取り扱い可能なメーカーとして取引されているのだ。
↑ シュビロット (ARCK設置)
現在は「ガブリエスⅣ」が全日本スリークッション選手権で使用され、主流となっている。
聡臣のオープンした『トリプル』はまだ日本製のテーブルの時代だった。
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