とても面白いお題だ。
思ってたのとちがった。この感覚は何度も味わう人と、一、二回で済む人がいるんじゃないかな。
わたしは何度も味わった派である。
それでけっこう無駄に疲労している。
「思ってた」=「想像していた」「期待していた」だろう。
「思ってたのとちがった」=経験する前の情報不足、間違っていた情報、というよりはやってみないとわからないことが
多すぎる。
いやいや、やってみないとわからないけど、容量のいい人はある程度はやる前から見えるのかもしれない。
ちょっとここから人によっては嫌いなネタになる。
20代のころ女数人で初めて男女の一線を越えるという話になった。
一人の子があっけらかんと言ってくれた。「あんなに足をひろげなきゃいけないのびっくりしなかった」
そこらはもう、本音炸裂コーナーだった。
「体固いからできなかった」「体操だよね」「ロマンなんかないよね」「結局上手くいかなかった」
最後にある子が言った。
「だれも教えてくれないことだもんね!」
そうだ。わたしたちはいつだって「だれも教えてくれなかった」ことについて真実を知った時、大変な思いをする。
最近、芸能界での性被害などが今さらになって話題になっているが、劇団系の人たちも当時は話せなかった被害について
語り始めている。
知り合いにわかいころ、演劇を志し辞めた人がいる。
それなりの劇団だったが、男女関係がぐちゃぐちゃしすぎていて、結局その人間関係に上手く立ち回れる人が生き残る。
その構図を見てることすらイヤになったと。
何も知らず田舎から上京した自分がはずかしかったそうだ。
これもだれも教えてくれないことだ。
SNSの普及で昔は手に入らない情報が簡単に入るようになった。
「思ってたのとちがった」が減るかもしれない。
しかしSNSの普及で勝手に思い込む人も増えるだろう。
自分の職業は作家なんだけど、作家同士のSNSのやりとりとかを見ていて「自分も入りたーい」と思ってしまう十代もいるかもしれない。
そしてその子が「作家」になった時、思ってたのとちがったになるのかも。
そこはだれにもわからない。