ともに…【再掲・追記】阪神・淡路大震災「1.17の記録」の写真に、な、な、なんと、私が写ている‼ | えぇ~雑感?日記

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日々の出来事、雑感など、思いつくままに綴っていきたいと思います。

令和6年1月1日16時10分緊急地震速報とともに神戸でも揺れを感じました。

非日常は、時を選ぶことなくやってくるものだと改めて思いました。

 

あの時は、15日の日曜日が成人の日で16日の月曜日が振替休日。

ファミレスの店長だった私は、いつものように忙しい日祝日の業務を終え、17日(火)に大阪支社でのメニュー会議に向かう予定でした。

 

あの日は、雪が降るほど寒かったです。

 

暖を取るのが困難な状況でしたが、店舗のワンブロック先まで火災が迫っていたお蔭で、17日の夜から翌朝まで店の駐車場の車の中でも暖かかったのを覚えています。

 

今、冷静に考えてみると、死んでもおかしくない危険な状態でした。

 

毎年、思い出します。

 

忘れないために。

 

つなぐために。

 

むすぶために。

 

ともに。。。

 

【以下の投稿は、2014年12月12日にUPしたものに一部追記したものです。】

 

先日、新聞記事に『阪神・淡路大震災「1.17の記録」 』の紹介がありました。

そうか、もうすぐ20年かと思いつつ、写真を観ていると
な、な、なんと、私が写っているではないですか!!

二次利用不可ということで、残念ながら直接、写真を貼ることができません。
神戸市広報課の方に尋ねたところ、リンクを貼っても良いということなので、直リンクを貼らせていただきます。

直リンクはこちら

写真中央で、オフロードバイクに跨っているのが、20年前の私です。
これは、震災後一時避難していた高砂市の実家から、震災当時、店長を務めていた『サンバレイ西神戸店』のある長田に向かっているところを後ろから撮影されたものだと思います。

この写真を観たとき、忘れかけていた当時の記憶が蘇ってきました。

母と当時のことを話しているうち、母が覚えているのに私が忘れていたことも多々ありました。
私自身も、さらに20年経てば、震災の記憶はどうだろうか?と思ってしまいました。
この機会に、当時のことを可能な限り、思い出して書き留めておこうと思いました。

以下、少し、長文になるかもしれませんが、当時の写真を観ていただきながら、震災の記憶を思い起こし
今後、起こるかもしれない大災害に備える心構えの一助になれば、幸いです。

 

28歳誕生日


この写真は、1991年11月 サンバレイ西神戸店店内で私の誕生日に、アルバイトの学生が撮ってくれたものです。当時は、まだ店長ではなく、ホール主任という役職でした。
このカウンター席の後ろが、3年後の震災当日、野戦病院のようになることは当然、想像もしていませんでした。
近所の方々が、店内に避難して来たり、けが人が運び込まれたりと、それはそれは大変でした。
震災当日は、雪もちらつくほど寒く、暖を取るものがなかったので、カウンター席の後ろでサゼッションメニューで使っていた固形燃料の一斗缶を燃やし、その燃料も無くなってしまったので、やむを得ず、近所の倒壊した家の木材を頂いて燃やしました。
そのおかげで、暖は取れたのですが、カーペットに焦げ跡をつくってしまい、後で、上司に叱られました(苦笑)。
でも、あの寒さの中、けが人も含め多数の方がいましたので、致し方のないことだったと思っています。
 

大晦日1
大晦日2


この写真は、1994年の大晦日、店内でアルバイトといっしょに撮った写真です。
当時、役職は店長でした。
1995年の新年を迎え、私を含めみんな、希望に満ち溢れた顔をしております。
この写真には、1月15日の成人の日(当時は、成人の日は1月15日でした。)に晴れ着を着て、店まで来てくれた女の子も写っています。
確か、男女合わせて成人の日を迎えた学生アルバイトが10人前後いたと思います。
みんな、わざわざ、晴れ着姿で店に来てくれました。
その二日後、あんな恐ろしいことが起こるとは、やはり、誰も想像していなかったと思います。
 

大開交差点

 阪神・淡路大震災「1.17の記録」 写真コード d037 より (一部加工しています。)

この写真は、自宅マンションの近くの大開通8交差点周辺を撮影(1995年1月26日)したものです。
私の住むマンションは、大開通沿いにあり、通りを挟んで北側にちょうど、神戸西労働基準監督署がありました。
 

地図


震災当日は、確か、メニュー会議で大阪に行く予定だったと思います。
まだ、寝そべってはいましたが、もう、目は覚めていました。
そして、午前5時46分52秒運命の瞬間が訪れました。
下から突き上げる激しい縦揺れで、体が勝手に直立しました。
その後の横揺れで、部屋の中でシェイク状態、ふすまが外れて飛んでくるは、家具は倒れるは、で怪我をしなかったのが不思議なくらいでした。
揺れが治まり、ベランダから東の空を望むと、何とも言えない異様な色をしていたのを覚えています。
その時は、真面目に大阪が核攻撃を受けたと思いました。
日の出とともに、明るくなってきたので、マンション下の大開通に出ました。
ところどころ道路に段差ができていました。
私の住むマンションは、ほとんど新築のようなものだったので、倒壊は免れましたが、それでも、壁にヒビが入り半壊状態でした。(その後、取り壊されて新しいマンションが建っています。)
店がどうなっているか心配だったので、徒歩で店まで向かいました。
立体駐車場に入れてある車が出せなかったからです。
車は、震災から半年後、回収することができ、リア部分が壊れていましたが、直して乗れるようになりました。
改めて、マンションから店までどれくらい歩いたのか、Yahoo地図で調べてみたのが、上の地図です。
距離1.9km 時間22分となっていますが、それは普通の状態で歩いた場合であり、店に着くまでの間の惨状にショックを受けながら歩いたので、約1時間は歩いたと思います。
 

西市民病院

阪神・淡路大震災「1.17の記録」 写真コード f120 より (一部加工しています。)

この写真は、自宅マンションの近くの神戸市立西市民病院を撮影(1995年1月19日)したものです。
この光景を目の当たりにしたとき、何とも言えない感情を覚えました。
ここから先、店に近づくにつれ、非日常の現実を突きつけられることになります。
多くの木造家屋が倒壊し、着の身着のままの人たちが路上にあふれていました。
 

五位の池線から

阪神・淡路大震災「1.17の記録」 写真コード f044 より (一部加工しています。)

この写真は、JR新長田駅からサンバレイ方面に向かうJR新長田北五位ノ池線を撮影(撮影日不明)したものです。
写真の感じでは、震災後、だいぶん経っているようですが、このように倒壊した家屋が、あちこちにありました。
 

サンバレイ

阪神・淡路大震災「1.17の記録」 写真コード f126 より (一部加工しています。)

この写真は、震災当日の火災が発生しだした頃の写真(1995年1月17日)だと思います。
この時間帯は、まだ、店内に避難していました。
その後、大きな余震が来ると、店舗倒壊の恐れもあることから、店舗スタッフ、避難していた近所の方々は退出していただき、けが人は、店舗スタッフが西市民病院まで送り届けました。
私と調理長は、店の駐車場で調理長の車に乗り、眠れない一夜を過ごすことになりました。
 

長田方面火災

阪神・淡路大震災「1.17の記録」 写真コード d046 より (一部加工しています。)

この写真は、震災当日、兵庫区の湊川公園から長田方面を撮影(1995年1月17日)したものです。
湊川公園から見ても、これだけ空が赤かったとは。
私と調理長は、車の中からワンブロック先の真っ赤な空を眺めつつ、死を覚悟しました。
 

サンバレイと火災後

阪神・淡路大震災「1.17の記録」 写真コード g058 より (一部加工しています。)
 

火災後

阪神・淡路大震災「1.17の記録」 写真コード f137 より (一部加工しています。)

これらの写真は、火災後の様子を撮影(g058は1995年月日は不明 f137は1995年1月26日)したものです。
店のワンブロック手前で火災が止まっています。
 

トーホー

阪神・淡路大震災「1.17の記録」 写真コード f205 より (一部加工しています。)

この写真は、サンバレイのすぐそばにあった兵庫銀行前を撮影(1995年1月18日)したものです。
サンバレイの駐車場にあった水道メーターのところから水が出ていた思います。
そこから消防がホースで繋いでいたのでしょうか?

店の駐車場に震災後確か二日ぐらいいたと思います。

 

(2024年1月16日撮影)

 

西代の店からこの長田区三番町5丁目の公衆電話まで歩いて行き、大阪支社に電話しました。

上司から『なんで、すぐに連絡せえへんねん。』と理不尽なことを言われたのを覚えています。

当時、まだ珍しい関西セルラーの携帯電話を持っていたのですが、全然繋がらず、バッテリーも無くなってしまったため

公衆電話を探して歩いたわけです。

店にも公衆電話があったと思いますが、繋がらなかったのだと思います。

大阪支社では、土居は死んでしまったのではと言われていたようでした。

電話をした後、店に戻り、施錠し、いわゆる2次避難できる社員は避難する旨の貼り紙をして解散することとなりました。

それで、どうしようかと思っていたところ
近所の方に『店長!私たちは、これから静岡の親戚を頼って避難するので、この自転車よかったら使って!』と自転車を頂き、私はその自転車で、高砂市の実家を目指すことにしました。
 

 

国道2号線

阪神・淡路大震災「1.17の記録」 写真コード g051 より (一部加工しています。)

この写真は、JR須磨駅付近を上空から撮影(1995年1月27日)したものです。
まさに、この国道2号線をひたすら西に向かい自転車で走りました。
西に向かって走っていくと日常の風景が戻ってきました。
明石駅近辺を歩く人々を観て、先程までの非日常の世界から一気に、日常の世界に戻ったような気がしました。
明石駅に着くと、電車が動いていたので、最寄りの宝殿駅まで電車に乗りました。

ここから記憶にないのですが、家に着くと、母に おにぎりとお茶をお願いして、妹の50ccのスクーターを借りて、すぐに長田に向かったそうです。
母:『何も食べてないんやろ?』
私:『みんなも食べてないから』
この会話の後、長田に向かったそうです。
おそらく、アドレナリン全開だったのでしょう(笑)。

再び帰宅後、会社に連絡を取ったところ、大阪支社まで出社命令があったので、50ccのスクーターでは、あの悪路はきついなと思い、加古川のレッドバロンでオフロードバイクを購入し、その足で大阪を目指しました。

冒頭で紹介した写真 は、大阪に向かう途中、長田のサンバレイに寄ろうとしていた時のものです。

そして1年後
 

1年後

阪神・淡路大震災「1.17の記録」 写真コード f113 より

この写真は、西代通1丁目交差点を撮影(1996年1月17日)したものです。
サンバレイの回転看板も新しいものに変わっています。
復興の兆しが見えます。

震災で、人生が変わってしまった方は、大勢いらっしゃると思います。

私も、震災が無かったら、サラリーマンを辞めていなかったかもしれません。

現実を受け入れるには、長い時間が必要かもしれません。

忘れたい出来事だったかもしれませんが、忘れてはいけないことだと思うのです。

そこには、後世に伝えていかなければならないことがあると思うからです。