Dear my dearest Dad,
You were my guiding star.
I never imagined a day would arrive when I would no longer be able to see you.
I miss you terribly and find strength in the lessons you taught me.
【父62歳、母60歳】
今から丁度1ヵ月前の2024年8月17日、父が79歳で他界しました。
子供たちと私が、7月25日に帰国した日から手術前入院の8月6日までの約2週間、実家で父と一緒に過ごすことができたのは、軌跡で幸せな時間でした。
元々は、7月25日から子供二人だけで日本に帰国させ、その後8月11日に私が日本帰国ということで航空チケットを予約していましたが、父と母の要望や医師である兄のアドバイスを聞き、私の日本帰国日を急遽変更しました。
(子供達と私とで違う日本行きの飛行機で日本に帰国することになってしまったのは、その理由があったからなのです。→★ )
1年ぶりに再会した父は、とても元気で食欲もあり、私がロンドン時間に合わせてリモートワークをしていた時に、父はヒロとリズと母と4人でプールに泳ぎに行ったり、レストランへみんなで5回も一緒に行くことができました。
私たちがキッザニア東京に出掛けた日は、母と二人で仲良く健康プラザへ行き、ジムで二人でストレッチをしたり、温泉浴を楽しんだそうです。
今年のパリオリンピックの日本人の活躍をテレビの前で一緒に観戦しながら、「あと10年くらい生きてくれたら、私の子育てが終わっているはずだから、ロンドンから年2回長期で帰ってきて、お父さんやお母さんのお世話ができるし、最後看取ってあげられると思う。だから手術がんばってね。」と話しました。それを聞いた父のあの嬉しそうで安堵の顔を一生忘れることはないと思います。
元々8月に父の手術が予定されていたので、今年の夏は、日本で私も車の運転をした方がいいだろう、ということで私も保険に加えてもらう手配を父にお願いしていました。
私は、両親が運転する大きな車に慣れていなかったため、この夏、父に助手席に乗ってもらい、車の指導を受けたり、父に一緒にヒロのサッカーのトレーニングにも付き添ってもらったりもしました。
手術前入院する当日の朝(8月6日)は、ヒロとリズに「お小遣いだよ。」と言ってお小遣いを渡してくれました。
誰もが手術後に帰らぬ人となるとは思っていなく、子供達は「じぃじ、またね!」という感じで普通に挨拶しました。
私はなんとなくですが、父とハグして「お父さん、がんばってね。」と言って父を玄関で送り出し、父は母が運転する車で病院へと向かいました。
【今年の夏 - 父の手術日の数日前】
手術日の前日の8月7日、たまたま携帯電話を見ていたら、父からLine電話が入り、すぐに応答することが出きました。
「梨とカステラが食べたいから、お母さんに頼んで持ってきてもらってもいいかな?」という内容でした。
父は家に梨とカステラがあることを知っていたので、そのように頼んできた訳ですが、すぐに母は梨を切って、カステラと一緒に病院に持って行きました。
美味しそうに梨を食べている父の横で、母が両手で父の片手を包んであげたそうです。その時の父の手の温もりが忘れず、母はそれを思い出しては今でも涙を流しています。
そして、「ヒロとリズの習い事があるから、早く帰るように。」と母に早く家に帰るように促したそうです。
父は翌日の手術を控えて不安だったと思うのですが、自分のことより孫たちのことを最優先に考えてくれる優しい人でした。
そして、8月8日朝から8時間以上の手術に臨んだ父ですが、結果的に上手くいかず、手術日より9日目、母、兄家族、ヒロ、リズ、私が見守る中、他界しました。
手術後から父が亡くなるまでの9日間は、母と私は毎朝と毎夕と病院に父のお見舞いに行き、薬で眠っている父と心で会話をしました。
その間の9日間は、胸が張り裂けそうな時を過ごしましたが、主治医や看護師さん方の真摯な対応に心を打たれ、父のお見舞いに行く度に感謝の気持ちで一杯でした。
そして、その精神的に大変だった9日間ですが、常に母と一緒に行動でき、母と父のことを話しながら、父の偉大さを噛みしめることができた良い時間だったのかもしれません。
(子供達は、予定通りお盆の時期に千葉の兄家族のところへ遊びに行かせてもらっていたので、不在でした。)
今年の夏の子供達のスケジュールも、父がエクセル表に細かく記載し、事前に子供達の習い事やスポーツの申し込みや根回しも全て済ませてくれていました。
父が他界したタイミングですが、父はこの夏のスケージュールが全て頭に入っていたかのように、子供たちの予定はほとんどキャンセルすることなく済みました。
この夏の前半に元気な父と一緒に過ごすことができ、父の最期を看取り、子供達と一緒にお葬式に出席することができ、母に寄り添うこともできたこと、普段海外に住んでいる身としては、非常に難しいことですので、奇跡が起こったのかもしれません。父のことを完璧と言わないでなんというのか、というほど素晴らしい父であったなぁと父が他界して身に染みて思います。
また、父が他界してからロンドンに帰国するまで2週間ほど時間があり、お葬式関連はもちろんのこと、相続関係の手続きやその他のことを母の代わりに進めことができたことも非常に良かったと思っています。
父は1945年2月に生まれ、横浜で4人兄妹の一番上の長男として育ちました。
祖父母は既に他界しているのですが、祖母が長男の父のことをいつも頼りにしていることを私は子供のながらに感じていました。
父は、両親のことはもちろんのこと、いつも弟たちやかわいい妹のことを気に掛けている面倒見が良い長男でした。
1960年代、戦後日本の歴史のなかで社会運動がとくに盛んだった時期、父は早稲田大学商学部に入学し、合気道部に所属し、 麻雀をしたり、山登りをしたり、学生時代を謳歌したという話しを聞きました。
弟や妹がいるから絶対に浪人はできない、と受験前は必死で勉強し、夜中父が勉強している姿を祖母が見ると、父はよく髪の毛を右手で触っていたそうです。父が考え事をする時に髪の毛を触る癖は、最近まで続いていました。
学生時代の合気道部の同期とは、特に定年退職後、毎年同期旅行会があり、母と一緒に国内のあちこちで行われる同期旅行会に参加していました。
去年の秋も、母と一緒に同期会に泊まりで参加したという話しを聞いていました。
父はサラリーマン、母は専業主婦という昭和でありがちな典型的な家庭で、兄と私は育てられました。
バブル景気に40代だった父は、毎晩のように接待を受けたり、接待をしたりで、浴びるようにお酒を飲み、お土産に持たされるお鮨屋さんのお寿司の箱を持って帰ってきていました。
会社に車で行き、帰りは運転代行サービスで帰ってきていました。ですので、幼いながら「運転代行」という言葉は知っていました。
中学生くらいになると「今晩遅くまで起きていたら、お父さんはお鮨屋さんのお土産持って帰ってくるかなぁ。」と密かに期待していたことを覚えています。
出張も多かったり、いつも頂き物をしていたので「お父さんお帰りなさい。」の後に「今日のお土産はなに?」と聞くことが癖になってしまい、父からは「〇〇ちゃん、いつもお父さんがお土産を持って帰ってくると思わないでね。」と苦笑いしていた父の顔を今でも覚えています。
子供の頃から身体を鍛えることは大事、スポーツに専念することは大事、部活は絶対に入ること、という教えで、私が中学校、高校、大学で体育会スポーツ系の部活に所属していたのも父のアドバイスに影響されました。
小学校の時、父に近くの山へ山登りに週末になるとよく連れて行ってもらいました。
兄と私だけでなく、近所の子供達も引き連れて、みんなで山登りに行った楽しい記憶は今でも心に残っています。
また、週末によく父の車の運転で家族4人や兄や私のお友達も一緒に水泳に行き、その帰りにみんなでお夕食を食べに連れて行ったもらった思い出も心に刻まれています。
私が持久走が得意だったこと、今でも足腰が丈夫なのも、父が山登りや水泳に連れて行ってくれたお陰で、体力が付いたのかもしれません。
【家族でオリエンタル急行の旅 シンガポールにて2000年】
私が幼稚園年長の時、今も実家があるところに母がデザインした二階建ての家を建てました。私と兄はその家で育ちましたが、約9年前にその家を取り壊し、同じ土地に機能的な平屋の家に建て替えをしました。
時々、母はお友達から「お家を2軒も建てられるなんて、旦那さまに感謝だね。」と言われるそうです。
2軒目の建て替えも母の案でしたので、父はお嬢様育ちの我が儘気質の母に大変甘かったと思います。
【私の結婚後、二人でよくイギリスに遊びに来てくれました】
父は、仕事が忙しかったにもかかわらず、兄と私の勉強を熱心にみてくれました。特に中学時代は一緒に5教科全ての試験対策をしてもらいました。
兄が医学部に合格できたのも、私が希望する大学付属高校に進学できたのも、父が基礎からしっかり勉強を教えてくれたからだと思います。
定年退職後は、お友達とゴルフやジム通い、サークル活動を楽しむ傍ら、勉強することが大好きで、時間があれば机に向かって勉強していました。我が家では父のことを「我が家の万年受験生」と呼んでいました。
特に英語と源氏物語やイギリスの文化や政治について熱心に勉強していました。
私が社会人になってからイギリスの大学院で修士号を取ったり、兄が医学の博士号を取ったのも勉強好きの父に影響されたと思います。
【オットの実家にて勉強の成果を披露する父】
【私の結婚式 - 横浜ホテルニューグランド】
【兄の結婚式 - ハワイ】
私がイギリスに来てから、父と母はコロナ期前の2019年夏まで毎年(時には年に2回も)ロンドンまで遊びに来てくれました。
ヒロが生まれた時もリズが生まれた時も、手伝いに来てくれました。
リズの時は、母より先に一人で渡英し、「夕暮れ泣き」が酷かったリズを毎夕抱っこしてくれて、大変助かったことは今でも我が家の話題によくのぼります。
ロンドンにせっかく来てくれたのに、私の作るご飯が母のお料理ほど美味しくなく、父に悪いことをしたなぁと今でも思っています。
父との思い出やエピソードは色々ありすぎて、ここでは書き切れないのですが、父のことを本当に尊敬しており、私にとって愛しい父でした。
【父とヒロ in London】
【父とリズ in London】
私がロンドンで会社へ出社する日の朝は、父と母と電話で話すことが日課となっているのですが、もう父と電話で会話きないんだなぁと思うと、とても悲しいです。
いつも行き詰ることや悩みがあったら父に相談していたので、相談相手を失ってしまい、心にぽっかり穴が開いたようです。
でも、いつも涙を流して悲しがってばかりいられませんし、父が望んでいることではないと思うので、父のお葬式以来前を向いて歩いて行こうと決意し、今に至ります。
母ともいつも話していることですが、父が生まれたのは戦時中の横浜空襲が頻繁の時、育ち盛りの時は戦後の貧しい日本、4人兄妹の長男でたくさん我慢もしてきて、栄養もままならなかったと思います。
そして、働き盛りの時は、企業戦士として目一杯がむしゃらに働き、身体や健康のことを気を付けない20、30、40代を過ごした父が、今思えば79歳まで生きることができたことは奇跡だったのかもしれません。
それには、母の支えが大いにあったからだとも思っています。
50年間寄り添った父を亡くし悲しんでいる母を置いて行ってしまった父ですが、母と一緒になれたことで父は色々特をしたことがあり、母に出会えてラッキーな父であったことは間違いありません。
紹介で知り合った父と母ですが、はじめの出会いは渋谷のハチ公の前で待ち合わせということですが、母は大遅刻したにもかかわらず、父は母のことを辛抱強く待っていたそうです。
渋谷フランセケーキショップ喫茶店でおしゃべりをしたそうですが、1時間40分も待ってくれた父を見て、母はこの人に付いていこうと思ったとか。
【両親の結婚式 - 横浜ホテルニューグランド】
【父と母のデュエット - イギリス人親戚&友達との箱根ツアー】
8月22日に父の家族葬を執り行ったため、ご近所の方々、元会社同期、ゴルフ仲間、英会話サークル仲間、源氏物語サークル仲間、詩吟教室の会、お友達ご夫婦、大学時代のお友達や先輩後輩、色々なグループに所属しどこのグループでもみんなに仲良くしてもらっていた父に、手をあわせようと多くの方たちが毎日のように実家に来て下さるそうです。
母は、来客のスケジュール表を作り、その方たちへの御もてなしのため、お料理をお出ししたり、大変忙しそうですが、父のことを一緒に話せて心の整理がついてなんだかんだで楽しそうにしています。
みんなでお酒を飲むことが大好きだった父なので、その様子を見て父はきっと喜んでいることと思います。
【父のホームコースにて 75歳】
父にはもう少し長生きして、ヒロやリズ、もう一人の孫(兄の一人娘)の成長を見ていて欲しかったなぁ、もっと父と話したかったなぁ、、、と欲を言ったら切りがありません。
母はもうすぐ77歳ですが、今のところ病気知らず、趣味のゴルフを嗜み、ゴルフのスコアを伸ばすためにスポーツジムに週6日父と一緒に通っていました。
今では少しずつジムに復帰しているそうで、母には健康に長生きして欲しいと思います。
そして、母の80歳のお誕生日を一緒にお祝いしたいので、もう一度ロンドンに来て欲しいと願っています。
【父の遺影となった写真】