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タイガース非公式サイト2代目

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2024年05月13日
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背番号22(その1)

みなさんこんにちは 背番号史忘れてないよね? 前回が5月6日だったからちょうど1週間たっちゃいました 試合がある日以外でも書きたいことが飛び入りであったりしてなかなか進まないけど 週1回のペースは守っていきたいなとおもってます 忘れずに見に来てね
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 背番号22の第1回目です 「22」は球団創設の1936(昭和11)年は誰も着けてないのね 設立2年目から塚本博睦さんという方が着けたのが始まり

第1回目は塚本さんから始まって2リーグ分裂直前の1949(昭和24)年までにこの番号を着けた4名の選手を紹介するね

塚本博睦(ひろよし)外野手(再掲)

すでに背番号「21」で登場しているがあらためて掲載する。

広島県呉市出身。地元呉港中学時代はのちに職業野球に進む藤村冨美男(大阪)、や原一朗(大阪)、田川豊(南海・太陽・近鉄・大映)などとチームメイトで甲子園でも活躍した。1934(昭和9)年の夏には全国制覇、1935(昭和10)年夏も出場しベスト8になっている。

 1936(昭和11)年、立教大学へ進学したが、先にタイガース入りしていた藤村から誘われ、年末に大学を中退して大阪タイガースに入団し、タイガースで初めて背番号「22」を着ける。

 公式戦には1937(昭和12)年から出場しているが、同年春が12試合、秋は6試合、翌1938(昭和13)年も春に11試合、秋にも15試合で、主に代打や守備固めにとどまっている。

 しかも20歳になったばかりの1938年末に陸軍に召集されて3年間中国北部で軍務についており大きなブランクとなった。

 軍務を終え除隊となって復帰した1942(昭和17)年はレギュラー外野手として94試合に出場、309打数66安打20打点1本塁打で打率.214を記録、盗塁も20個決めている。

 1943(昭和18)年は81試合、1944(昭和19)年に31試合に出たところで、戦争激化のため職業野球が中断となる。なお、1944年から背番号を「21」に変えて退団するまで着けた。

 戦争が終わり1946(昭和21)年のシーズンから元の背番号「22」で復帰。1947(昭和22)年には106試合347打数104安打34打点17盗塁でリーグ第4位の打率.300を記録、中心選手として活躍する。

 しかし、年俸など金銭面での待遇に不満を持っていたため、1947年暮れに退団してしまい、阪急ブレーブスへ移籍し、以後は毎年のように球団を渡り歩くことになる。
       

 1948(昭和23)阪急で135試合に出場、139安打を放ち39盗塁を記録するが1年で退団。

 1949(昭和24)年は東急フライヤーズで113試合に出場。122安打で盗塁も24個を記録するが1年で退団。

 1950(昭和25)年、2リーグ制になると西日本パイレーツ、1951(昭和26)年には西鉄ライオンズ、1952(昭和27)年に広島カープに移ってプレーし、同年に引退している。なんともあわただしい選手生活だった。

 引退後は社会人チームの監督を経て、1960(昭和35)年にタイガースに戻って2年間2軍監督兼打撃コーチを務めている。

 通算成績は実働12年885試合2824打数712安打219打点17本塁打170盗塁229三振で打率252。典型的な俊足の中距離ヒッターで2番を打つことが多かった。

森下 博 投手

愛知県出身で東邦商業(現東邦高校)時代の1940(昭和15)年に選抜大会に出場しベスト8の経験がある。

森下に関しての情報は極端に少なく、戦争中にどうしていたかもよくわからない。戦争が終わって職業野球が再開されたが、戦地から復員していない選手が多く、各チームが選手不足で困っていた1946(昭和21)年の6月、貴重なサウスポーとしてタイガースへ入団し、背番号「22」を着けている。

この年、公式戦に3試合登板し投球回数6回、被安打6、与四球7、奪三振0、自責点7、防御率10.50というのが残っている数字のすべてだ。

1年で退団しており、その後社会人の今泉産業や富久山日東紡でプレーしていたという情報は確認できるが詳細はわからない。当然ながら写真等の資料も一切見つからない。

長原 孝浩 投手

 広島県出身で呉港中学。1947(昭和22)年に読売ジャイアンツへ入団しているが、登板は1試合のみ。2/3を投げただけで打者5人に対し3四球、暴投1の記録が残る。なぜか失点・自責点とも0。1年で自由契約。

 翌1948年はタイガースに入団、森下の退団のあと1年間空き番だった「22」を着けた。

 タイガースでは2試合に登板、2回2/3で打者16人に対し被安打2、6四球、奪三振3、暴投1、失点・自責点4、防御率9.00という数字のみが残っている。

 その後はタイガースでバッティング投手を務めたらしいが、詳細な情報は皆無である。

江藤 正(晴康) 投手

 福岡県八幡中学(現八幡高校)の出身で法政大学に進む。右投げ本格派の投手で活躍しているが学徒出陣で軍に召集され、台湾で終戦。

 終戦後は社会人野球の門司鉄道管理局や大洋漁業で投げていたが、1949(昭和24)年に大阪タイガースと南海ホークスとの間で獲得合戦が起こり、4月2日、タイガースはすでに南海ホークスと仮契約を済ませていた江藤と強引に契約書を交わし二重契約問題が勃発してしまう。これを知った南海は江藤の身柄を確保し潜伏させる対抗措置をとる。

 タイガースは「1949年だけはタイガース所属でプレーし、翌年ホークスに譲る」という妥協案を提示したがホークスは拒否して連盟に提訴した。

 結局連盟の裁定は、「一度タイガースへ形式的に入団した形をとり、即時ホークスへトレード」というものだったが、この二重契約の当事者である江藤には1年間の出場停止のペナルティがつき、1949年はまったく試合に出られないという厳しいものとなった。

 ということで江藤は背番号「22」の選手として一瞬だけタイガースに在籍したことになる。まったく試合にも出ていないがタイガースの在籍名簿に残ることになった。
 江藤は1950(昭和25)年から南海で4年、1954(昭和29)年には高橋ユニオンズに移って1年、1955(昭和30)年は東映フライヤーズに1年在籍したのち引退しているから短命な選手だった。

しかし、南海在籍中の1951(昭和26)年には45試合25勝5敗、268回2/3を投げて奪三振100、自責点68、防御率2,28という成績を残し、最多勝のタイトルを取っている。

まとめ

初期のころはいろいろあったんだね

塚本さんは戦争に3年も行ってるけど戦前戦後それぞれである程度の数字も残せたのはまだ恵まれていたのかもしれないね めまぐるしく移籍を繰り返してるのは本人の意思だったのかしら?

森下さんなんて記録に数字が残ってなかったら誰も覚えていないかもしれないよ

長原さんはプロ野球現役2年で3試合の実績しかないのに 巨人と阪神に在籍した記録を持ってるなんて他に聞いたことのない珍事じゃない?それぞれの球団で公式戦出てるし

江藤さんは2リーグ分裂前後のどろどろとした大人の争いに巻き込まれちゃった感じよね それにリーグの裁定は江川さんのときとなんとなく似てるね ペナルティは江藤さんのほうが重いなあ 江藤さんのケースはタイガースが強引すぎるとおもう 2リーグ制になって球団が増えたから人材不足なのはわかるけど 昔は汚いことやってたんだ

背番号22の2へ続く

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Last updated  2024年05月13日 16時22分08秒
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