おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その5。飯岡漁港・刑部岬付近の今昔。東日本大震災の被害状況・「復興かわら版」より。(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-29 19:19:33 | 銚子往還

飯岡漁港・刑部岬付近の今昔。

                      (現在)砂州が沖に伸びています。

かつての海岸線が浸食により後退している、と思われる。

                     (1880年代)岬のような地形ではありません。

100年間の海岸地形の変化は著しい。港湾施設の建設などで潮流の変化があったことも、大津波の一因になったのでは?

         

                  

     

「・・・自宅兼店舗は、海に向いた玄関から津波が入り周囲の壁を壊して突き抜けていた。幸い家族は避難して無事だったので、しばらくは友人やボランティアの力を借りて私は週末だけ帰り片付けを手伝った。再建に時間がかかったが12月にオープン。私は郷里に戻り父と二人で店を経営してゆく決心をした。経営は難しいが、私なりにインスタグラムやフェイスブックなどを活用して、会席料理をもっと気軽に若い人に楽しんでもらえるよう頑張る。」

「大地震の日は飯岡中学校で帰りのホームルームの最中だった。津波が来るかもしれないと言うので先生方の引率でスポーツ公園に避難した。帰宅後避難の準備をして玄関を開けたら、すでに津波が来ていて立ちつくすしかなかったのを覚えている。その後、東北の被災地でボランティア活動をする中で、規模の大小にかかわらず、被災者は心に傷を負っているから、心の復興が大切だと思うようになった。成人を機に、飯岡のために何かしようとSNSでよびかけたところ15人ほどが賛同してくれた。市の協力を得て、震災の紙芝居や防災パンフレットの配布、小学校での防災教室などを行ってきた。・・・」

「大震災に遭ったのは小学3年の時だった。3階に避難したとき窓から見た海は、真っ黒い波が黄色の建物を飲み込んでいく光景だった。次々と避難する人達が集まってきて、担架で運ばれる人もいた。父が迎えに来てくれて自宅に戻った。自宅は大きな被害はなかったが、友だちのおじいさんが津波で亡くなったことはショックだった。日が経つにつれ、地震や災害のニュースを見るたび、津波が建物をのみ込む光景や津波が人の命を奪ったことがフラッシュバックして恐怖心がよみがえる。・・・」

「3月11日は銚子の市場に入ったところで大地震に遭った。2回目の地震で大津波警報が出たので自分の店の船が繋いである飯岡漁港に戻ったのは4時くらいだった。港は引き波のあとで海底が見え船が何艘も横倒しになっていた。持ち船の一艘は祖父が津波をぬって沖に出していて助かった。もう一艘に父と二人で乗り込み、ロープで固定したがすぐに第二波が押し寄せ、港の中で渦を巻き始めた。ロープは切れ、船は渦に巻かれて死ぬかと思うほど怖かった。・・・忍耐の11年間だったが、主力商品を増やしたり、産直やネット販売など工夫しながら飯岡の地場産業を守っていくつもである」

「・・・防潮堤のかさ上げ、河川開口部のゲートフラップ、復興住宅も竣工しました。グループ補助金などにより産業も復興しました。津波避難道路の用地取得も進んでいます。皆様のご協力、ご理解のたまものです。防災・減災のためには事前の計画・準備が重要です。しかしながら、市役所だけでは災害を防ぐことはできません。皆様の自助、共助、日常の備えをお願いします。市民の絆、人と人とのつながり、チーム旭で安全安心のまちづくりおをすすめましょう。」(旭市長 米本弥一郎)

(「復興かわら版●いいおか津波●」より)


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