おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その5。成田線と「利根水郷ライン」。側高神社・髭撫祭(ひげなでまつり)。東関東自動車道。飯沼観世音江八里。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

2024-05-15 15:37:53 | 銚子往還

右手、線路の向こうは丘陵。

成田線・国道356号は台地の裾を縫うように進む。

バス停「側高(そばたか)青年館」。この先に、「側高神社」の大きな看板。

左手は利根川堤に続く田んぼ。

水準点。これも民家の敷地内にある。「海抜2.0m」。

「側高神社入口」。

奇祭「髭撫祭(ひげなでまつり)」で知られる側高神社は、香取神宮第一の摂社です。香取神宮の祭神である経津主命と縁故の深い神を祀った神社ですが、その主祭神は神秘とされて明らかにされていません。
鳥居をくぐって拝殿へと向かう石段の脇には、「四季の甕」と呼ばれる石段が並んでいます。石段の側から春の甕、夏の甕、秋の甕、冬の甕といい、夫々の甕の水量が四季折々の降水量を示すとされています。
この神社は利根川を見下ろす台地に建立されていますが、はるか昔は香取ヶ浦と呼ばれる広大な内海が眼下に広がっていたであろうと想像されます。そして境内には樹齢500年を超えるといわれる夫婦杉があり、さらに太さ7.4mもの杉のご神木も見事に聳え立っています。
本殿は寛文五年(1665)の建立で、独自の構造を持つ本殿は当地域ではほかに例がなく、昭和57年に千葉県の有形文化財に指定されました。

毎年1月第2日曜日に行われる髭撫祭は今から約800年前、鎌倉時代の建保二年(1214年)に始められたと伝えられています。大倉村中の氏子を氏族別に18組に分け、18当番の各組が毎年交互に2組ずつ祭り当番・請当番として奉仕するしきたりで、祭当番引き継ぎの行事として執り行われます。当日、神前に注連縄(しめなわ)を張り、鶴亀遊ぶ蓬莱山(ほうらいさん)を飾り、両当番は西と東に分かれて酒を飲み合います。年番のみが髭をつけています。紋付羽織袴という古式の礼装に威儀を正し、荒筵(あらむしろ)の上に著座し、二人ずつ交互に出て七引き合いの杯事を行い、初献より七献目(満献)まで、一杯・三・五・七・七・五・一杯と定められています。この定められた杯を飲み干したのち、年番は請年番に酒を勧めるため立派なひげを撫でます。これは「もっと飲め」という合図で、請年番は断れないしきたりになっています。これが「ひげなでまつり」といわれる所以です。見事に飲み干す度に勇者を褒めはやす鬨(とき)の声が新年早々の側高山に湧き上がり、今なお昔ながらの手振り床しく、五穀豊穣、子孫繁栄を祈念して引き継がれているのです。貴重な伝統文化であり、昭和52年に市の無形民俗文化財に指定されました。

(この項「」HPより)

「東関東自動車道」の橋梁。

             

利根川河畔を望む。

            田植えを終えたばかりの水田が広がる。

この踏切際に道標「飯沼観世音八里」があるようですが、車の行き来が激しく確認できず。

バス停「丸峰入口」。

成田線上り電車が通過。

         この1本後の電車に乗るつもりです。しかし、膝の痛みがますます激しく、やっと歩いている感じ。

丘陵が迫ってきます。

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JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その4。田植えの季節。国道356号「利根水郷ライン」に合流。「津の宮」。バス停「香取駅」。鹿島線。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

2024-05-14 21:01:24 | 銚子往還

田植えの時期。                  

来た道を振り返る。

バス停「かわじり橋」。「川尻」。

利根川沿いに進んできた国道356号「利根水郷ライン」に合流。

国道に入ってすぐ左手に、「香取神宮一ノ鳥居(津宮鳥居)」。

ここは、利根川歩きのときに立ち寄っています。大鳥居と「与謝野晶子歌碑」があります。

そのときのブログ記事。

・・・

川辺に大きな鳥居。「浜鳥居・常夜灯・与謝野晶子歌碑」。

香取神宮表参道の「一の鳥居」であるこの鳥居は、利根川の津宮河岸に建つ。現在の鳥居は、平成14年(2002)に竣工された。この辺りの利根川は、もともと香取が浦(香取の海)と呼ばれ、鳥居も水中に建ち、浜鳥居と呼ばれた。香取・鹿島・息栖の三社参詣の際は、この鳥居をくぐった。ここに建立されている常夜灯(香取市指定文化財)は、明和6年(1769)に三社参詣の講中の人々が航路の安全を祈願し香取神宮に奉納した。高さは2.8まり、利根川を行き交う船の目印となった。その傍らに、歌人与謝野晶子の歌碑がある。晶子はは、明治34年(1911)に銚子を訪れた際に津宮に立ち寄り、鳥居河岸の宿屋で歌を詠んだ。

かきつばた 香取の神の津の宮の 宿屋に上る 板の仮橋

与謝野晶子歌碑。

          

・・・

バス停「津の宮」。

国道356号線「利根水郷ライン」を進みます。

                  この先からは、利根川河畔と少し離れていきます。

この国道は、銚子・小見川・対岸にある鹿島臨海工業地帯への幹線道路。大型トラックなどがひっきりなしに行き来します。

路肩も狭く、けっこう歩くのに苦労します。信号も少なく、スピードを出して通り過ぎるので、恐い!

バス停「香取駅」。 

駅までは、かなり歩きます。

バス停「堀川」。 

遠くに鹿島線の利根川橋梁。

「鹿島線」の高架をくぐります。

振り返ると、

            右に「鹿島線」、左に「成田線」。

鹿島線

成田線の佐原駅から銚子側の1駅先にある香取駅から分岐し、水郷潮来あやめ園や十二橋めぐりなどの水郷の観光地を持つ潮来駅鹿島神宮鹿島臨海工業地帯のある鹿嶋市の中心である鹿島神宮駅を経由し、鹿島サッカースタジアム駅を終点とする。

※去年の夏、「関東ローカル線の旅」で乗りました。

左手に「鹿島線」。

そして、5月12日は「母の日」でした。子どもたちが思い思いの心を込めて。

        

             

父の日よりも心温まる、やっかみ日でした。もちろん、おこぼれ頂戴! 

飲み干した「久保田純米大吟醸」に一輪のカーネーション。

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JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その3。枡形(曲尺手)。佐原宿から銚子街道へ。仁井宿・鷹の飾り物(山車)。飯沼観世音江九里。銚子街道踏切。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

2024-05-13 20:53:00 | 銚子往還

「香取神社入口」交差点を左折します。交差点を振り返る。

                         右手が佐原の中心街。

すぐ右折。

枡形(曲尺手)になっていて、「佐原宿」から離れていくことになります。

この道「佐原銚子街道」を香取駅を経由、水郷駅へ。

「御神燈」。「○内安○」。

香取市のマンホール。

                    市の花「アヤメ」の咲く水郷での鮒釣りをデザイン。

※2006年3月27日に佐原市、香取郡栗源町、小見川町、山田町と合併し、香取市となった。

バス停「仁井宿(にいじゅく)」。

仁井宿は佐原で最も古い町内の一つです。
嘉永5年(1852年)に製作された2代目の漆塗りの幣台(やだい)は、完成から既に150年近くが経過しており傷みが激しくなりましたので、平成10年の春に現在の幣台(やだい)が新造されました。
仁井宿では3代目の幣台(やだい)にあたります。

飾り物は「大鷹」です。この巨大な「鷹」は全長7メートル余りで、主な素材に稲藁を500把・荒縄を20巻を使っています。
町内総出で300人の人たちが力を合わせて作り上げました。

この「大鷹」が初めて作られたのは200年前以上の宝歴年間と伝えられています。

(この項、「sawara.com」HPより)

道標「飯沼観世音九里」。※約36㎞。

銚子の飯沼観音まで道標が建っています。 この道標にはすべて「飯沼観世音江何里」と飯沼観音までの里程が示されています。

この街道は、観音巡礼札所の滑川観音(成田市滑河)から飯沼観音にいたる巡礼道でもありました。

          

「水準点」。民家の敷地内にありました。「海抜4.4m」。

バス停「篠原」。

旧家。大きなお屋敷。

右手には房総の山。

バス停「渡船場入口」。

線路を越えた突き当たりは、利根川河畔。船着き場があるようです。

正面に県道のJR成田線「跨線橋」。

       

左手にJR成田線の線路。

「銚子街道踏切」。

銚子駅方向。

利根川河畔から続く国道356号「利根水郷ライン」に向かいます。

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JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その2。佐原宿・古い町並み。土蔵造り・看板建築。忠敬橋・小野川。鯉の作り物(山車)。(「佐原銚子街道」をゆく。第1日目。)

2024-05-12 20:15:47 | 銚子往還

看板建築の一つ。木造モルタル造り。

              なかなかおしゃれです。

メインストリートに向かいます。

蔵造りのお店が並んでいます。

この界隈は、以前来たときに歩き回りました。今回は、あっさりと歩きます。

観光客もたくさん。外国人の姿も結構見かけます。

          

(伊能)「忠敬(ただたか)橋」。

「小江戸さわら舟めぐり」で有名な「小野川」。

利根川の支流である小野川は、江戸期より水運の集散地として佐原の町を発展させた。農業用水としても古くから利用され、香取市牧野地先にを造り、樋橋を介して市内関戸方面や本宿耕地方面に水を引いていた。1951年(昭和26年)に国鉄佐原駅北側に小野川から掘り込み式の佐原が完成したが、船の需要がなくなったため1970年(昭和45年)に埋め立てられた。2004年(平成16年)には市街地の洪水を解消するため香取市牧野地先から本宿耕地地先利根川までを流す小野川放水路が完成した。

※「佐原港」の今昔

              

1970年代のようす。駅の北側に堀割の港。       現在のようす。千葉県香取合同庁舎などの敷地に。

※「樋橋(とよはし)」。

 樋橋は、江戸時代の初期、佐原村の灌漑用水を東岸から西岸に送るため、木製の大きな樋をつくり小野川に架けられたものです。
 もともとこの橋は、人を渡すためにつくられたものではなく、後に大樋を箱型につくり、丸太の手摺を付け板を敷いて、人が渡れるようになりました。
 橋の名は、大樋でつくられたので樋橋といい、また大樋から水がジャージャーと流れ落ちていたので「ジャージャー橋」とも呼ばれました。
 昭和に入り、コンクリート製となり、現在の橋は平成4年に架け替えられたものです。(「解説板」より)

最近のCMで登場しています。

割烹 宮定」。

これから、佐原は、「あやめ祭り」で賑わいます。

この先は、「佐原銚子街道」を歩くことになります。

「さわら十三里屋」。

         栗(九里)より(四里)うまい芋製品。

※「くりよりうまい」は、埼玉・川越が江戸(中山道・板橋宿)より13里(半)の距離があることになぞらえたうたい文句ですが、このお店の屋号にもなっているわけです。

重厚な土蔵造りの建物が連なります。「癒しの雑貨 らぱん」。

「佐原三菱館」。

レンガを積みあげて建てられた2階建ての洋館で内部は吹き抜けになっており、2階周囲に回廊がある。屋根は木骨スレート葺きで、正面建物隅にドームを設けてある。川崎銀行佐原支店(開業明治13年)として大正3年に建設され、現在は市に寄贈され、千葉県有形文化財に指定されている。

左に「蜷川家具店」。

       左奥が看板建築。意匠がすぐれています。

ここまで来ると人通りも少なくなります。

ここにも見事な看板建築。「サクマ薬局」。

「下仲町」バス停脇の旧家。

         

「香取街道」とあります。

八坂神社・山車(だし)会館のところに大きな鯉が。

八日市場区の麦藁細工でできた鯉の飾り物。

GW中に特別に各区の山車の引き回しがあるそうです。※佐原には5月3日に訪れましたが、このときには遭遇しませんでした。

跳高欄を廻した山車の天上部には、日本神話など様々な説話から取材した歴史上の人物の大人形や作り物が飾り付けられています。

 大人形は、身の丈4~5mにおよび日本最大級の大きさを誇っています。

 この大人形は、江戸時代から明治・大正時代にかけて名人と呼ばれた人形師達によって技術の粋を集め制作されたものです。

 また、作り物には、麦藁細工の鯉や稲藁細工の鷹等、町内に住む人達の手によって制作される昔ながらの飾り物もあります。

(この項、「香取市」HPより)

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JR成田線「佐原駅」~「水郷駅」。その1。「銚子街道」の成り立ち。佐原駅。街道に合流。古い家並み。(「銚子街道」をゆく。第1日目。)

2024-05-11 20:01:39 | 銚子往還

まだまだ「銚子往還」歩きを続けます。「佐原」から「銚子」まで。

「東金線」、「総武本線」を利用しての「銚子往還」から「成田線」を利用しての「佐原銚子街道」歩きとなります。

銚子街道

国道356号が現在踏襲している利根川沿いに整備された街道である。なお、厳密に起点は決定されておらず、木下街道と接続する木下付近を起点とする説や佐原を起点とする説もある。江戸時代には我孫子宿我孫子市寿1丁目16、追分石碑)で旧水戸街道と接続していた成田街道印旛郡栄町安食「安食」交差点までの国道356号の一部、県道18号・松崎街道)と共に印旛への輸送路・開発路として役割も果たした。

また、水運と共に発達し、明治期には水戸街道(現在の国道6号)とともにすでに国道として確立していたが、利根川の治水工事の影響により現在は一般県道市道に格下げされている箇所もある。神崎町区間では成田線と並行しており利根川とは大きく離れているが、香取市の佐原市街地に入ると再び合流し、県道55号が踏襲している。なお、かつてはここに佐原宿佐原の町並み)があり、成田山新勝寺に至る佐原街道香取神宮に至る香取街道多古街道と接続していた。その後は銚子市唐子町の「銚子大橋前」交差点までの多くを成田線と並行して国道356号が踏襲している。西芝町で銚子道(※「銚子往還」として歩いた道筋)と合流し、飯沼町の飯沼観音付近で鹿嶋市水戸市に至る飯沼街道と接続する。なお、水郷の町として栄えた佐原の発展のため、伊能権之丞らが発起した武総鉄道会社は銚子街道に沿う形で建設が計画された

(この項、「Wikipedia」より)

成田線「佐原駅」。

佐原は、成田からの「佐原街道」の終着地として、また、利根川河口から左岸を遡ったときにも立ち寄りました。

5月3日(祝)。快晴。

京成成田駅から、JR「成田」に乗り換え、「佐原駅」に向かいます。

ところがこの日。鹿島スタジアムでサッカーの試合があるようで、満員すし詰め。佐原まで立ちっぱなし。周囲は、サッカーの話で盛り上がっています。

こちらは、膝も腰も痛くなってしまいます。

佐原駅で鹿島線に乗り換えるため、向かいのホームに大移動の皆さん。あっという間に鹿島神宮宇行きが満員。すっかり空いた電車から降ります。

ところが、改札口は、いっぱいの人。佐原巡りもけっこうにぎわっているようです。

さあ、歩こうか、といっても膝の痛みはなかなか消えず。小見川駅まで歩く予定でしたが、その手前の「水郷駅」で挫折。

ということで、水郷駅までの報告。

安孫子からの街道に合流。

古い家並みが残っています。

         

この付近の今昔。

                       (1880年代)↓(桝形)が現在も残っている。

宿場の町並みが東南に広がる。どの宿場と同様、鉄道の駅は中心から離れたところに設置された。

                       (現在)「佐原宿」では、上宿、仲宿と連なる。

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旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その6。イオンモール銚子。春日町バス停。旧道。銚子駅。(「銚子往還」をゆく。第8日目。)

2024-05-09 18:37:57 | 銚子往還

国道沿いにある「イオンモール銚子」。ここまで歩きました。

             

大型店舗で、駐車場もけっこう満車。

ここから銚子駅へのバスに乗り、「春日町」バス停で下車。国道126号から右、直線の旧道を歩きます。

 

街道沿いらしい町並みではありません。

総武本線「清川町踏切」。

銚子駅方向。

この道をまっすぐ進むと、佐原方向からの「銚子街道」と合流します。

              

右に折れて銚子駅前へ。

銚子駅。

「国木田独歩」碑。

夏の波は高く 冬の波は低し 土用七月の波 これを犬吠岬に見る その壮観未だ忘るゝ能はず 病牀録より

「太平洋岸自転車道 起点 銚子駅」。チーバくん。

「油屋金物店」。

角地を生かした看板建築。目立つ。駅寄りには化粧品の「あぶらや」さんがあるようです。そこも看板建築。

右に曲がると、水準点。「海抜5.3m」。この先に「寶満寺」跡。

※戦前は市中央部のこの場所にあったが、昭和20年3月及び7月の大空襲により炎上、移転した。

特に7月19日~20日は、B29が91機。侵入後わずか3分で電話は不通、送電は途絶え、30分後にはほとんど全市が猛火に包まれた。死者278名、焼失家屋3,950戸。

・・・

銚子の街歩きはここまで。

発車時間が近づき、銚子駅に向かいます。(何しろ1時間に1本なので逃すとタイヘン! )

     銚子電鉄へ向かう階段に「犬吠埼温泉郷」。

総武本線で戻ります。

車窓より。

                「飯岡駅」。  

「松尾駅」。

こうして、大網からの銚子往還。2ルートからの銚子歩きも終了。

しかし実は、利根川沿いにも銚子への街道がありました。「飯沼観音」への道です。

そこで、次回から佐原から銚子まで歩くことにします。

※佐原までは葛飾・新宿(にいじゅく)から水戸街道と分かれ、佐倉街道・成田街道・佐原街道と歩きました。

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新緑の向島百花園。年間パスポート更新。カルガモたち。5月5日快晴・昼下がり。

2024-05-08 19:37:37 | 銚子往還

久々の「向島百花園」。年間パスポートを購入(280円)。

緑が濃くなった百花園。

               スカイツリー。

カルガモの姿。

何羽もカルガモがいます。番が何組か。

百花園の池は一組の親子が棲みつくだけ(のはず)。今年は、どういうわけ?

先陣争いなのでしょうか? 去年の雛が成長して戻ってきて・・・

  

  

          

「楽焼体験」。 

              隅田川焼き。かつては、都鳥や秋の七草をモチーフにした作品があったそうです。

  

梅の実。  

         みやこわすれ。

ばしょう。新しい葉っぱが。

次第に夏もようになっている「百花園」です。

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旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その5。畑の中に風力発電所。ソバ畑。住宅地へ。国道126号に合流。しばらく国道歩き。(「銚子往還」をゆく。第8日目。)

2024-05-07 20:41:21 | 銚子往還

風力発電所。畑の向こうに。

        振り返る。

ダイコン畑。

広大な畑地と風力発電所。

収穫時期の異なる畑。

ソバの花。

風車から次第に遠ざかる。

住宅地に入り、正面を左折。

  

国道126号に合流します。

               銚子方向。

旭方向。

「イオンモール銚子」に向けて歩きます。

この付近の今昔。

                      (現在)国道への道が不明になっている。

                       (1880年代)街道沿いに集落はなく、畑の中の一本道。

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旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その4。小浜町・「道切り」の風習。小浜風力発電所・屛風ヶ浦風力発電所。台地へ。(「銚子往還」をゆく。第8日目。)

2024-05-06 19:55:40 | 銚子往還

キャベツ畑が広がる。

集落はまだ先まで続きますが、銚子往還は右折します。

ここで右に折れます。

            急坂を下ります。

振り返る。

頭上に、

    道を横切るように、しめ縄、タコ(右)やイカ(左)などの作り物が渡されています。「道切り」。

道切り(みちきり)とは、

地域)の出入り口にあたるで行われる民俗習慣のひとつ。辻切り(つじぎり)とも称される。

日本の村落においては、村と山の境界にあたる野良(ノラ)、あるいは村と村の境(サカイ)には古くから疫病をはやらせるなどが出入りすると考えられていた。出入り口にあたる道には魔を防いだり、追い払うために道祖神が祀られたり、注連縄(またはで作った)を張ったり草履草鞋が供えるなどの道切りが行われていた。

関西地方では近畿地方を中心として、村境や辻、寺社の境内などに注連縄を渡す勧請縄(かんじょうなわ)という行事が多く行われている。また、比較的都市化の進んだ千葉県北西部地域(佐倉市市川市船橋市八千代市)を含む千葉県各地で、名称はさまざまだが、道切りに相当する行事が現在も行われている。形態も、百足や蛇や龍の形をした綱を境界の木に据え付けるもの、同様の綱を道に張り渡すもの、人形や魚介類(蛸や海老)を模したものや草履などを吊り下げるもの、鹿島人形やお札を立てるものなど、多様性に満ちている。(「Wikipedia」より)

※「Wikipedia」では、小浜町の「道切り」の写真が掲載されている。

ここからは、集落を離れて下っていきます。

  藤の花。

振り返ると、「銚子小浜風力発電所」。

坂道を上がると、前方の視界が開けてきます。

             来た道を振り返る。

「銚子屛風ヶ浦風力発電所」。

左手。

              

左右に広がる畑地の中をしばらく進みます。

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立夏。5月5日。端午の節句。こどもの日。五月晴れ。「目に青葉・・・」。「夏は来(き)ぬ」。「背(せい)比べ」。

2024-05-05 18:15:31 | 二十四節気

                 一面、麦畑。緑が目に染みるようです。(「日光東往還」歩きにて)

5月5日(日)は、24節気の7番目「立夏」。春分と夏至のちょうど中間にあたる。

暦の上での夏の始まり。この日から立秋の前日までが夏季になる。

5月1日が「八十八夜」でした。    

「立夏(りっか)」とは夏の始まりの時期。一年のうちで、もっとも過ごしやすい季節。

むしろ、温暖化で季節が早まっています。すでに真夏日が出たところも。

東京地方も晴天で、じわじわと暑い。

七十二侯でいうと、

・初侯 5月6日〜5月10日頃

蛙始鳴 かわずはじめてなく

春先に冬眠から目覚めた蛙がウォーミングアップを終え、元気に活動し始める頃。オスの蛙の鳴き声は、メスの蛙を恋しがって鳴く声だともいわれています。

・次侯 5月11日〜5月15日頃

蚯蚓出 みみずいづる

冬眠していたミミズが土の中から出てくる頃。他の生き物は「啓蟄」の頃に出てきますが、ミミズはマイペースに活動を始め、土を肥やしてくれる影の努力家です。

・末侯 5月16日〜5月20日頃

竹笋生 たけのこしょうず

たけのこがひょっこり顔を出す頃。伸びすぎないうちに収穫しなければ、美味しいたけのこは味わえません。種類によって収穫期は異なるので、三月から六月頃まで収穫できます。

(この項、「暦生活」HPより)

                      

最近は、筍も早め早めになっているようですし、銚子街道歩きでは、ミミズもけっこう道ばたに這い出しています。カエルの鳴き声も聞こえてきます。

5月に入って最近の東京地方の天気のように晴れると、「爽やかな」「五月晴れ」といったりますが、この表現が気になることも。

※「爽やかな」は、秋の、まさに澄んだ空に用いたように思うのですが。5月頃は「薫風」「風薫る」というような表現が適切だったような・・・。

※「五月晴れ」も本来は「梅雨時の合間の晴天」(旧暦の5月の、じめじめとうっとうしい雨が続く中、時に、すかっとした晴れ間がある。)を指していました。ところが、いつしか「5月」の晴れの日でも使われるようになり、今や、この言い方がすっかり定着したようです。

たしかに、二つとも、あまりこだわることはなさそうですね。

しかし、「梅雨」を指す「五月雨(さみだれ)」と、「梅雨のころの夜の暗さ」などを表す「五月闇(さつきやみ)」は、本来の意味で用いられています。

「立夏」というと、山口素堂(寛永19年~享保元年)の「目に青葉山ほととぎす初鰹」。

正しくは「目に」だそうですが。「青葉」も「ほとどぎす」も「初鰹」もいずれも夏の季語ですね。

「初鰹」に因んだ芭蕉の句碑が神奈川県の戸塚宿にあります。

「芭蕉句碑」(旧東海道歩きの際)

 「鎌倉を 生きて出でけむ 初松魚(かつお)  芭蕉翁」

 当時鎌倉で水揚げされた初鰹は戸塚を通り江戸に運ばれました。嘉永2年、当地の俳人達によって戸塚にちなんだこの句の碑が建てられました(「解説板」)。

さらに、作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助により1896年に発表された歌「夏は来ぬ」。こういう季節感、風物詩は、都会ではまったくなくなりました。

卯の花の 匂う垣根に
時鳥 早も来鳴きて
忍音 もらす 夏は来ぬ

さみだれの そそぐ山田に
早乙女が 裳裾ぬらして
玉苗 植うる 夏は来ぬ

橘の 薫る軒端の
窓近く 蛍飛びかい
おこたり諌むる 夏は来ぬ

楝ちる 川べの宿の
門遠く 水鶏声して
夕月すずしき 夏は来ぬ

五月やみ 蛍飛びかい
水鶏鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ

つい口ずさんでしまう名曲。卯の花、時鳥、さみだれ、玉苗、橘、蛍、楝、水鶏、五月やみ、夕月、・・・季節感あふれる詩情。しかし、これらの風物も、すっかり忘れ去られてしまった感がします。

この歌すらも、忘れ去れてしまって・・・。

    (「Wikipedia」より)

また、今日(5日)は、「こどもの日」。五節句の一つ「端午の節句」です。

以前ほど鯉のぼりをあげているおうちは少ないようです。ご時世でしょうか。

旧暦では午の月は5月に当たり、5月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、後に5が重なる5月5日が「端午の節句」の日になった。「端」(はし)は「始め・最初」という意味であり、「端午」は5月の最初のの日を意味していたが、「午」と「五」が同じ発音「ウ-」であったことから5月5日に変わった

 
端午の節句に菖蒲などの多種の薬草を厄除けに用いることは中国の南朝梁・隋朝の文献に記されており、菖蒲は刻んで酒に混ぜて飲む、とある

日本では、菖蒲を髪飾りにした人々が宮中の武徳殿に集い、天皇から薬玉(くすだま:薬草を丸く固めて飾りを付けたもの)を賜った。かつての貴族社会では、薬玉を作り、お互いに贈りあう習慣もあった。宮中の行事については、奈良時代に既に「菖蒲のかずら」等の記述が見られる

鎌倉以降の時代になると、「菖蒲」が「尚武」と同じ読みであること、又、菖蒲の葉の形が剣を連想させる事などから、端午は男の子の節句とされたと仮説されている。そして男の子の成長を祝い、健康を祈るようになった。、武者人形や金太郎武蔵坊弁慶を模した五月人形などを室内の飾り段に飾り、庭前にこいのぼりを立てるのが、現在に至る典型的な祝い方である(但し「こいのぼり」が一般に広まったのは江戸時代になってからで、関東の風習として一般的となったが、京都を含む上方では、当時は見られない風習であった)。鎧兜には、男子の身体を守るという意味合いが込められている。

江戸時代迄、端午の日に子供は河原などで石合戦をする「印地打ち」という風習があったが、負傷者や死亡者が相次いだ為に禁止となった。また、印地打ちが禁止になった後、菖蒲を刀の代わりにした「菖蒲切り」というチャンバラが流行した

端午の日には柏餅(かしわもち)を食べる風習がある。柏餅を食べる風習は日本独自のもので、は、新芽が出るまで古い葉が落ちないことから「家系が絶えない」縁起物として広まっていった。

なお、男の赤ん坊を持つ家庭にとっては初節句となるため、親族総出で盛大に祝われる事も多い。特に、家意識が強い地域ではその傾向が顕著である。5月5日が祝日であり、更に、前後に祝日を伴う春の大型連休期間中であるため、雛祭り以上に親族総出で祝われる。

日本においては、女性が田植えの前に穢れを祓う斎戒を五月忌み(さつきいみ)と呼ばれた。また「フキゴモリ(葺き籠り)」と称して、5月4日(端午節の前夜にあたる)には、男性が戸外に出払い、女性だけが菖蒲やヨモギで葺いた家の中に閉じこもって過ごす習俗があった「菖蒲の節供」は元々女性の節句だったとする説がある。

また、5月4日の夜から5月5日にかけてを「女天下」と称し、家の畳の半畳分ずつあるいは家全体を女性が取り仕切る日とする慣習を持つ地域がある

(この項、「Wikipedia」参照)   

そうそう、こんな歌も思い出しました。

「背(せい)くらべ」海野厚作詞・中山晋平作曲

柱のきずは おととしの
五月五日の 背くらべ

粽たべたべ 兄さんが
計ってくれた 背のたけ

きのうくらべりゃ 何のこと
やっと羽織の 紐のたけ

柱に凭れりゃ すぐ見える
遠いお山も 背くらべ

雲の上まで 顔だして
てんでに背伸していても

雪の帽子を ぬいでさえ
一はやっぱり 富士の山     

いよいよ田植えも盛んに

(水郷にて)。向こうは、利根川。

次の二十四節気は「小満」。5月20日になります。

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旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その3。磯見川。下って、上って。ソバの花。遠くに水平線が。小浜町。青面金剛像。風力発電。(「銚子往還」をゆく。第8日目。)

2024-05-04 18:53:57 | 銚子往還

「磯見川」に向かって下ります。

来た道を振り返る。けっこうな急坂です。

左手小高い丘の上に、

                  「日本ペット診療所」の施設。

右手遠くに海。

          かつてはもっと向こうに陸地が続いていたのでしょうね。

ソバ畑。白い花が咲いています。

        

「磯見橋」。

かつて、河口付近に「通蓮洞」がありました。

・・・

今回ご紹介する「通蓮洞」は、「磯見川」の河口付近にある「洞窟(どうくつ)」のことで、「名所」として賑わい、「通漣洞」、「通漣坊」、「潮漣洞」とも読み書きしていました。
 「千葉縣海上郡誌」の「潮漣洞」の「項」には、
 「豊岡小浜磯見川の河口にあり、一名「通漣坊」ともいう。
 潮汐(ちょうせき)沿岸を洗い、岩石為めに穿(うが)たれて一の大なる竈(かまど)形の空洞を生ず。
 一洞崩壊すれば、随(したがって)って一洞を生ず。
 世俗之(これ)を「延命淵」と称す。
 数十年前には、川の左右両岸に大小二個あり。
 小なるを「女竃(めがま)」と称し、大なるを「男竃(おがま)」と称せり。
 海上浪(なみ)高き時は、侵入する潮汐、恰(あたか)も長鯨(ちょうげい)の水煙を呼出(こしゅつ)するが如く、実に奇観なり。
 遠近伝えて奇異の顕象(けんしょう)となし、夏季観客常に絶えずという。」
 と記され、「通蓮洞」の「項」には、
 「小浜磯見川の河口に「通漣洞」あり。
 往昔(おうせき)「安倍晴明(あべのせいめい)」、垣根長者の娘「延命姫」の慕(した)うところとなる。
 「晴明」之(これ)を厭(きら)い、夜に乗じて逃れ去る。
 姫追慕、踪跡(そうせき)を尋ねて此(ここ)に至る。
 「晴明」履(くつ)を岩上に残し、去て「真福寺」に入る。
 姫至り之を見て、「晴明」既に死せりとなし、身を踊らして怒涛(どとう)の淵に投ず。
 空洞此(この)時より生じ、随(したがっ)て破るれば随て成る。
 居民此処(ここ)を称して「延命が淵」と云う。」
 と記されています。

 要約しますと「陰陽師(おんみょうじ)」の「安倍晴明」と「夫婦」になった「長者」の「娘」、「延命姫」は、醜い顔の「痣(あざ)」のために「晴明」に嫌われ、逃げられてしまいます。
 後を追った「延命姫」が「通蓮洞」のところに行ってみると、そこには「晴明」の「衣類」と「草鞋(わらじ)」が。
 絶望した「姫」は「晴明」を慕って「海」に「身」を投げてしまいました。
 しかし「晴明」は死んでおらず、「姫」を騙したという「悲しい物語」です。

 上記のような「延命姫伝説」の「舞台」でもある「通蓮洞」は、「旭市」との境にあり、「小浜側」の「男竃」は、「小浜通蓮洞」、「上永井側」の「女竃」は「上永井通蓮洞」と呼ばれていて、「男竃」は明治30年代に消滅し、「女竃」は「岩山」の「残骸」が昭和30年代まで見られ、河口の「砂洲(さす)」が広く美しかったそうです。
 また「岩」が「潮」を噴き上げる壮観な「景観」は、素晴らしく風光明媚(ふうこうめいび)な場所であったそうです。

 現在「通蓮洞」へは「畑」の中の「道」を入った奥にある「空き地」に「車」を停めて、徒歩で「海岸」まで降りていくことになりますが、「通蓮洞」跡へ続く「遊歩道」は現在「立ち入り禁止」となっていています。

 「悲しい物語」の「舞台」であり、風光明媚な「観光地」であった「通蓮洞」。
 「通蓮洞」に想いを馳せ、「景勝地」「屏風ヶ浦」「刑部岬」にお出かけしてみませんか?

(この項「」HPより)

来た道を振り返る。

今度は上り坂になります(標高55m→4m→55m)。

振り返り、振り返り、上がってくる。

「小浜町」の集落に入ります。

左手の高台にずらり「青面金剛像」「庚申塔」等の石仏。

青面金剛(しょうめんこんごう)神は庚申とも呼ばれる。 中世以降、庚申といえば阿弥陀、山王権現、帝釈天などであったが、江戸時代に至って、6臂[ぴ]の像が盛んに造られた。 その像の足下に、「見ざる・聞かざる・言わざる」の3猿が彫刻されたものが多く、2羽の鶏が、使いとして彫られているものもある。

お昼前、のどかなひととき。

  

と、右手には風力発電の巨大な風車が。

おうちの森に重なるかのように。

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旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その2。谷戸。当時の銚子往還道が、ほぼそのまま。日本ペット診療所。(「銚子往還」をゆく。第8日目。)

2024-05-03 16:38:55 | 銚子往還

静かでのどかな道。農作業で軽トラなどの行き来は多い。

                         

谷戸の風景。 田んぼや畑。 

多摩丘陵三浦丘陵狭山丘陵房総丘陵武蔵野台地下総台地といった関東丘陵地・台地の縁辺部が、長い時間をかけて浸食され形成された谷状の地形は、谷戸・谷津・谷地などと呼ばれている。

これらの表記および読みは地域により分布に差が見られ、同様の地形を表す際にも、千葉県などでは「谷津」(やつ)を、神奈川県および東京都多摩地域では「谷戸」(やと)または「谷」(や)を、東北地方では「谷地」(やち)を使う場合が多い。

これらの経緯については史料が少なく詳細は分かっていないが、いずれの場合も意味は同じで、浅い浸食谷の周囲に斜面樹林が接する集水域であり、丘陵地の中で一段低くなった谷あいの土地であることを表している

多摩丘陵・三浦丘陵における谷戸地形の成因は、主に約2万年前の最終氷期頃にかけて進んだ水・湧水による浸食で、その後の縄文海進期にかけて崩落土などによる谷部への沖積が進み、谷あいの平坦面が形成されたと考えられている

(この項、「Wikipedia」より)

路傍に集められた石仏等。

畑が広がる。

急な下り坂にかかります。海抜55mから4mへ、

                                

この付近の今昔。

(現在)流れは、塩見川。河口が「通蓮洞」跡。海岸の浸食が激しい。そのため、防潮テトラが築かれている。

(1880年代)当時唯一の往還道。海岸線は、かなり南方にあった。

前方が開ける手前に、「日本ペット診療所」の看板。

日本ペット診療所は千葉県旭市の海沿いの山の中にある動物病院です。
動物園動物など幅広い動物を日常的に診察し、そこで得られる膨大なデータ・知識・経験のすべてをペット医療に還元するために2017年この地に開院しました。

決して通院しやすい場所ではありませんが、ペットとパートナー様のために最良かつ最新の動物医療を適正な価格で提供していくことを第一に考えております。

人の生活様式の多様化に伴い、家族として迎えられる動物の種類も多様化しています。
日本ペット診療所では、犬・猫・ウサギや小鳥などの小動物に加え、インコやカナリア、オウムなどの鳥類、爬虫類や珍獣、猛禽類などのエキゾチックアニマルなど、幅広い動物を診察しています。

母体であるアジア動物医療研究センターとの連携により、キリンやカバなどの動物園動物を含む多種多様な動物の健康管理や診察を日常的に行っています。
そこで得られる膨大なデータ・知識・経験をペット医療に活かすことで多様なペット事情への対応を可能にしています。

病気の治療はもちろん、ペットの問題行動についての相談も承っております。
詳しくは診療案内をご覧ください。

(この項、「」HPより)

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旭駅~飯岡刑部灯台~銚子駅。その1。もう一つの銚子往還。(「銚子往還」をゆく。第8日目。)

2024-05-02 20:08:40 | 銚子往還

今回から、もう一つの銚子往還道(「従銚子港 至千葉町道」)を歩くことにします。

この道は、飯岡を抜けて銚子に向かう旧道で、海岸寄りの道になります。

旭駅からコミュニティバスに乗って刑部灯台の手前まで。そこから銚子駅を目指して歩きます。

途中から国道126号を歩くので、国道沿いにある「イオンモール銚子」まで歩き、バスに乗ることにします。

旧道の今昔。

     

(現在)上永井から東北に向かい、小浜町から三崎に向かう道が旧道。※通蓮洞は、すでに崩壊している。

(1880年代)「従銚子港」「至銚子港」として存在している。

立体地形図だと、

台地の縁を旧道が通っている。

・・・

さて歩き始めます。

「海抜59.6m」。

右手にキャベツ畑が広がります。左手は住宅。

時折、農作業用の軽トラや耕運機が通るだけ。

一面、畑やハウスが広がる。

この道が下の畑に下りる道?

    眼下、遠くに田畑が。

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総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その6。飯岡刑部岬展望館。「刑部岬」の由来。標高65.9m・日本橋から108㎞。「海辺里」。千葉交通バスで旭駅へ。(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-30 20:26:53 | 銚子往還

そろそろ昼飯時。旭駅周辺で買い物ができず、ここまで。帰りのバス時間も考え、刑部灯台から帰途へ。

「上永井公園 飯岡刑部岬展望館 ~光と風~ 」

この展望館は、千葉県立九十九里自然公園内に位置し、自然とふれあう活動の場として平成13年3月にオープンしました。

展望館のある刑部岬からの眺望は、「日本の夕陽百選」「日本の旭百選」「日本夜景遺産」「日本夜景百選」「ちば眺望百景」「関東の富士見百景」に選定されています。空気の澄んだ晴天時には、水平線に浮かぶ富士山や夕陽に映える富士山のシルエットを見ることができます。特に2月下旬には父子山頂に夕陽が沈む「ダイヤモンド富士」という珍しい現象が見られます。

ここ刑部岬からいすみ市太東岬に至る約66㎞の九十九里浜は、ハマヒルガオなどの植物群落のある美しい海岸として「日本の白砂青松100選」日本の渚百選」に指定されています。この海岸は、昔から海水浴場、地引き網、海釣り場等に利用され、近年は年間を通して、サーフィン等のマリンスポーツの場としても親しまれています。

「刑部岬」の由来

この地名は、平安時代末期に飯岡の海岸近くにあったとされる佐貫城の城主片岡常春に仕えていた家老鬼越刑部栄定の居宅が、この岬の崖下近くにあったことから呼ばれるようになったといわれています。常春は軍記物で「源義経四天王」として登場する人気者です。

屏風ヶ浦

展望館のある刑部岬から銚子市名洗まで約10㎞にわたり高さ35~60mの断崖絶壁が続いています。太平洋のていへうようの荒波がつくり出した海食崖が屏風ヶ浦です。その雄大な景観がイギリスのドーバー海峡に似ていることから、「東洋のドーバー」と呼ばれています。

  

「つなみ避難場所 上永井公園」。標高65.9m。

地点標示「標高 66.24m 日本橋から 108㎞」。

                         「飯岡灯台線拡幅改良工事竣工碑」。

(旧)飯岡町のマンホール。

屏風ヶ浦の絶壁の上に立つ飯岡灯台、そこから眺めた飯岡の港、はるか彼方まで続く九十九里浜をデザイン。灯台の手前には町の木「クロマツ」。右端に飯岡町の町章。用途は不明。

※2005年(平成17年)7月1日、(旧)旭市と香取郡干潟町(ひかたまち)、海上郡海上町(うなかみまち)・飯岡町が対等合併し新しい旭市となった。

「海辺里」。ここで昼食。

海鮮ちらし寿司。地魚づくし。

しらすのお吸い物もおいしい。お土産に「さば寿司」を購入しました。これもたいそう美味でした。

少しくつろいで、「国道126号」沿いにある旭駅行きの千葉交通バス「灯台入り口」まで。

左下からカエルのの鳴き声が、湿地帯・水たまりから聞こえてきます。

       

遙か遠くに水平線が。

                   飯岡漁港の方向。

「国道126号」銚子方向。

大きなお屋敷。

「国道126号」に合流。

バス停「灯台入口」。→「飯岡灯台」「屏風ヶ浦」。 

飯岡から旭駅に。

次回は、「飯岡刑部灯台」下から銚子に向けて歩きます。

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総武本線「旭駅」~飯岡漁港~刑部岬・灯台。その5。飯岡漁港・刑部岬付近の今昔。東日本大震災の被害状況・「復興かわら版」より。(「銚子往還」をゆく。その7日目。)

2024-04-29 19:19:33 | 銚子往還

飯岡漁港・刑部岬付近の今昔。

                      (現在)砂州が沖に伸びています。

かつての海岸線が浸食により後退している、と思われる。

                     (1880年代)岬のような地形ではありません。

100年間の海岸地形の変化は著しい。港湾施設の建設などで潮流の変化があったことも、大津波の一因になったのでは?

         

                  

     

「・・・自宅兼店舗は、海に向いた玄関から津波が入り周囲の壁を壊して突き抜けていた。幸い家族は避難して無事だったので、しばらくは友人やボランティアの力を借りて私は週末だけ帰り片付けを手伝った。再建に時間がかかったが12月にオープン。私は郷里に戻り父と二人で店を経営してゆく決心をした。経営は難しいが、私なりにインスタグラムやフェイスブックなどを活用して、会席料理をもっと気軽に若い人に楽しんでもらえるよう頑張る。」

「大地震の日は飯岡中学校で帰りのホームルームの最中だった。津波が来るかもしれないと言うので先生方の引率でスポーツ公園に避難した。帰宅後避難の準備をして玄関を開けたら、すでに津波が来ていて立ちつくすしかなかったのを覚えている。その後、東北の被災地でボランティア活動をする中で、規模の大小にかかわらず、被災者は心に傷を負っているから、心の復興が大切だと思うようになった。成人を機に、飯岡のために何かしようとSNSでよびかけたところ15人ほどが賛同してくれた。市の協力を得て、震災の紙芝居や防災パンフレットの配布、小学校での防災教室などを行ってきた。・・・」

「大震災に遭ったのは小学3年の時だった。3階に避難したとき窓から見た海は、真っ黒い波が黄色の建物を飲み込んでいく光景だった。次々と避難する人達が集まってきて、担架で運ばれる人もいた。父が迎えに来てくれて自宅に戻った。自宅は大きな被害はなかったが、友だちのおじいさんが津波で亡くなったことはショックだった。日が経つにつれ、地震や災害のニュースを見るたび、津波が建物をのみ込む光景や津波が人の命を奪ったことがフラッシュバックして恐怖心がよみがえる。・・・」

「3月11日は銚子の市場に入ったところで大地震に遭った。2回目の地震で大津波警報が出たので自分の店の船が繋いである飯岡漁港に戻ったのは4時くらいだった。港は引き波のあとで海底が見え船が何艘も横倒しになっていた。持ち船の一艘は祖父が津波をぬって沖に出していて助かった。もう一艘に父と二人で乗り込み、ロープで固定したがすぐに第二波が押し寄せ、港の中で渦を巻き始めた。ロープは切れ、船は渦に巻かれて死ぬかと思うほど怖かった。・・・忍耐の11年間だったが、主力商品を増やしたり、産直やネット販売など工夫しながら飯岡の地場産業を守っていくつもである」

「・・・防潮堤のかさ上げ、河川開口部のゲートフラップ、復興住宅も竣工しました。グループ補助金などにより産業も復興しました。津波避難道路の用地取得も進んでいます。皆様のご協力、ご理解のたまものです。防災・減災のためには事前の計画・準備が重要です。しかしながら、市役所だけでは災害を防ぐことはできません。皆様の自助、共助、日常の備えをお願いします。市民の絆、人と人とのつながり、チーム旭で安全安心のまちづくりおをすすめましょう。」(旭市長 米本弥一郎)

(「復興かわら版●いいおか津波●」より)

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