日記ということで気軽に考えを書いてみる。
 ある人は、共産主義や社会主義は、国家主義とは相容れないと考える。また、共産主義や社会主義と皇室を敬うことが、相容れないと考える人もいる。果たして本当にそうなのか疑問に思う。


 社会主義体制とは、生産手段を政府が管理する体制のことです。これは国家主義に反しません。国家社会主義という言葉があるように、国家権力が生産手段を管理すればいいのです。あらゆる個別的所有権が生産手段になりうるので、この場合、(一部の生産物を除いて、)個別的所有権を原則的には認めないことになります。それが皇室への敬慕と反するかというと、そうとは限らない。生産手段を政府が管理する体制では、公務員が資源配分と生産物の分配を決めます。公務員という特殊な身分の存在を妨げないばかりか、天皇及び皇族の存在も否定しないでしょう。さらに、政府の上に存在する天皇が、三種の神器や祭祀の道具を継承しても、おかしくない。祭祀などの国事行為も妨げない。もし、政府と天皇は別物と考えるのならば、三種の神器等は、例外的に政府が管理せず天皇が管理する体制にすればよい。天皇への敬慕どころか、天皇陛下への敬慕なら、なおさら矛盾しないだろう。

 共産主義の場合はどうだろう。共産主義体制とは、生産手段をみんなで管理する体制です。この体制では、生産手段の独占をみとめません。一部の人が誤解していますが、共産主義は平等性を志向する主義でも個別的所有物の存在自体を否定する主義でもありません。世界中の人間が生産手段を共有化するには、世界統一の政府による生産手段の独占の禁止が必要であり、この点では、国家主義と相いれません。
 では、国内の生産手段を国民だけで共有する場合はどうでしょうか?この場合は、原則的に個別的所有権を認めていないがために、外国との貿易が難しい。しかし、もし、一国の資源で何とかなる国ならば、共産主義と国家主義は矛盾しないでしょう。ボランティアによる国会や国民議会で立法など行うことは可能です。この場合でも、天皇の地位や神器を生産手段とみなさなければ、天皇及び皇族の地位と共産主義は両立可能です。その場合、天皇陛下や皇族の方々も、共有化された生産手段で生活用品を生産しないといけなくなります。ならば、公務を軽減する必要があります。様々な条件が付くものの、共産主義と国家主義は両立可能であり、共産主義と天皇の地位の存在も両立可能だろう。共産主義が国家の憲法・根本規範となる立憲君主制というわけである。

 電気などのインフラ整備は共産主義ではできないだろう。共産主義と社会主義を混合した体制の場合はどうだろう。一部の生産手段を政府が独占し、その生産物を国民に分配する。それ以外の生産手段は国民全員で共有する体制である。共有化している生産手段から生産の生産物の一部に納付義務を課し、公務員に分配する。この場合、純粋な共産主義よりスムーズに国家主義と両立しそうである。天皇の地位との両立も可能だろう。


 共産主義や社会主義と、国家や皇室の存在は、相容れないのだろうか?相容れないと考えるのは、思い込みな気がします。特に、社会主義とは、無理なく両立しそうである。


 言うまでもないですが、共産主義も社会主義も反対です。むしろ、八紘一宇や仁徳天皇の民のかまどを根拠に、社会主義や共産主義を目指す民族左翼が、現れるのではないかと、危惧しています。こう釘を刺しておきたい。古事記に基づく改革は、2674年という重みを無視する行為に他ならない。