日記として気軽に書いておく。


 主観と客観の区別は難しいが、重要である。実はこれは事実認識に関してだけでなく、道徳や倫理という価値判断に関しても重要である。つまり、主観的に不正な行いだと思っていることも、客観的に不正とは限らない。


 一般に、時代や地域によらず適用されるべき客観的に正しい普遍的な法・権利があると、考えられています。それが正しいとしても、それは、人によって認識が異なりうるのです。そして、事実として認識は人によって異なっています。
 たとえば、イギリス国民と欧州人権裁判所の間で、人権観の違いが存在しており、イギリス保守党は欧州人権条約の脱退と国内法の修正を考えています。欧州人権裁判所は、囚人の選挙権の容認、絶対的終身刑の廃止等要求してきましたが、イギリス政府やイギリス国民は、これに反発してきました。アメリカは国際人権規約自由権規約には批准していますが、社会権規約(A規約)を批准していません。
 人によっては日本の伝統的な考えこそが、世界に適用されるべき法だと考えるかもしれません。あるいは、キリスト教の自然法思想がそうであると答える人がいるかもしれません。または、ある人は、ムスリムの法が絶対的な法というかもしれません。または、フランスの人権思想こそが普遍的に守られる権利というかもしれません。あるいは、理性主義者は、世界の人が文化的で健康な生活を送ることを目的として、理性によって導出される法や権利をあげるかもしれません。
 正しいと主観的に思っているからといって、客観的に正しいとは限らないのである。


 なすべき行動と主観的に考えているからと言って、実際になすべきかは、分からない。なすべきと考えている事実だけでは、なすべきであることを保障しない。これは、小さな社会に適用される法においても、同様に言える。
 仮に、女性成人の通過儀礼として女性器切除がいると仮定しよう。(アフリカには実際にそういう民族がおそらく存在する。)つまり、その民族では、女性器切除したものを成人女性とみなす法が存在しているわけである。その民族内では正しい法と考えられており、それゆえに、法はよく遵守されている。しかし、この法がその民族内で遵守されるべきであるかは、別の問題である。実際に、この法に問題を感じた人もいるはずである。主観的に正しいと思っていることと、客観的に正しいことは、別の観念であると、その人は位置づけたわけである。
 「民族内でその法が正しいと受け入れられている。正しいと主観的に位置付けている」という事実や、「法が効力を有している」という事実だけからは、「その法が遵守されるべきである」という当為を導きだすことはできないのである。


 主観的に正しいと思っていることは、どこまでも主観的に思っているにすぎない。人間は、客観的に正しいことを知ることはできないのである。


 おまけ
 客観的に正しいことが何かを分からないからこそ、民族自決の原則を重要視します。各民族でそれぞれが正しいと思うことを追求したらいいと思います。ナチスドイツの誕生以来、「変な思想に囚われている国は他国に侵略する」という考えの下、人権思想の統一が図られ、民族自決の原則をないがしろにしてきた。しかし、民族自決の原則とそれを実現するための限定的な自由権規約だけを統一するだけで、事足りるのではないだろうか。公害問題などは個別に対応したらいいだろう。ただ、民族とは何かという根本的問題が残るわけですが。


 追記(2015/1/31)
 最後に、注意と訂正を述べておきます。本記事では、客観的正義が不明であることから、民族自決の原則を導き出しているように読めますが、厳密には違います。この記事の流れだけでは、民族自決の原則だけを、客観的正義と位置付けるのは、論理展開としては不自然です。また、主観的正義と客観的正義の相違や、客観的正義を知ることができないことは、存在(事実)であり、当為ではありません。存在だけからは、当為を導き出せません。そのため、これら事実だけからは、民族自決の原則という当為は導き出せません。

 日記として気軽に書きます。


 あらかじめ断っておくと、ここでの理性は数学的な演繹法に限定して言及する。物理や社会学などとは異なり、純粋な論理を考える。つまり、矛盾なく定義がなされ、いくつかの公理を正しいという前提で行われる思考形態を取り扱う。その思考形態において、事実認識や理性に基づく理論だけからは、追求すべき価値観を導出することはできない。事実認識や理論に先んじて、正しいと位置づける価値がないと、価値判断はできない。これは善悪(利害)の問題、正邪(行為の正しさ)の問題の双方に当てはまる。


 存在と善悪

 存在だけからは、利害関係をはっきりさせることはできない。
 たとえば、台風がどのような進路をとるかを予想するのは、事実認定や因果関係に基づく推量ですが、それをよいと評価するか、悪いと評価するかは、評価する人間がどのような価値を受け入れるかに依存しています。ある者は日本列島に台風が直撃することとその結果を善と位置付けるかもしれないし、ある者は、台風が直撃したその結果を悪と位置付けるかもしれない。
 または、2+3と4+7の大小の比較する際、2+3=5,4+7=11を理性によって求めることができるが、大小の比較には、実数が順序づけられていることを必要とする。5<11ということを自明に正しいとしなければいけない。

 価値判断には、あらかじめ価値の大小の順序を受け入れないといけない。つまり、追求すべき価値が何かを無批判に受け入れなければ、価値判断をすることはできない。


 存在と当為

 観察や資料による事実の認定や因果関係の推察だけからは、いかなる当為も正当化することはできない。

 まず、このことを考えるために、思考実験をしてみよう。もし、事実認定や理論のみから導出できる価値が存在すると考えるなら、その価値を実際に論理的に導出することを試みたらいい。しかし、そこには、必ず自明に正しいとしている価値観が存在します。例えば、殺人がいけない理由に伝統であるからと答える人は、伝統を破壊してはいけない行為と、根拠なく位置付けています。では、伝統はなぜ破壊してはいけないのでしょうか?あるいは、聖書の教えだからと答える人は、聖書の教えを破ってはいけないという価値を前提としています。「殺人を否定するのが民族の法的確信であるため、殺人をしないのが民族を拘束する法となる」と答える人は、「民族の法的確信には従わないといけない」という価値を前提にしている。ほかの例では、憲法は政府を国民が縛るものという憲法観は、国民が決めたことを政府が守らなければならないという根拠なき信念に成り立っているし、王権神授説に基づく君主主権もまた、神が認めた行為を否定できないという宗教的偏見に立脚しています。
 なにか一つでも、価値を事実や因果関係から正当化できますか?できないわけである。

 「Aすべきこと」を論証するために、「BするためにAが必要である」という法則と、「Bすべきである」ということが必要なのです。


 事実解明的分析と規範的分析

 経済学では、事実解明的分析と規範的分析を区別することがある。前者は存在を扱い、後者は当為を扱う。経済学は元々は道徳哲学や倫理学と同一の学問と分類されており、公正という概念を取り扱ったりする。しかし、ある政策で何が起こるのかの予想と、どの政策を実行すべきかは、別次元のことである。経済分析を基に政策を選択するのは、一般に、政治的信念を国民に支持された政治家であって、学者の個人的な価値観ではない。

 法学は、どう解釈すべきかやどういう立法をすべきかを扱うことがある


 存在と当為の違いを踏まえて

 個人の人生の目的だけでなく、国民共通の目的や追求すべき価値も、理論からは導出できないのである。では、いったい何かがそれらを決めるのだろうか?主権者を有する君主?あるいは、主権を有する国民?あるいは、建国の理念だろうか?いずれも、特定の時代の特定の人間の意思を絶対視する考えだろう。なら、徳や生得的な美意識だろうか?しかし、徳は多元的であるがゆえに、順序づけられない事柄が存在する。


 最後に

 本当は、存在と当為の違いは、物理や化学などの思考法にも存在する。しかし、その思考法は多分に感情の影響を受けるので、人間の感情を除外するという点から、今回は扱わなかった。いずれにしても、科学的思考からは、根本的な価値を正当化することはできないし、否定することもできない。

 日記ということで気軽に書く。


 ここでの悟性とは

 悟性が論理的思考にどのような影響を与えるかを、考えよう。まず、ここでの悟性が何を意味しているかを、明らかにしておく。観察を通して、モノの特徴を捉えて、その特徴から分類し、概念を構築する力です。あるモノと別のモノを同質なモノとみなすか、異質なモノと見做すかの判断に、必要な力ともいえる。たとえば、目の前の物体の特徴を見て、物体がリンゴや猫と分類するのは、この力によります。あるいは、自身の内面の変化から、喜怒哀楽を分類するのも悟性の働きです。

 これを踏まえて、悟性がどのように使われているかを見てみます。


 悟性と言葉

 言葉は抽象的です。そのため、悟性によって抽象的観念を構築していないと、言語化することができない。以前、言葉は帰納法を前提とすると位置づけた気がするが、正確には、悟性と帰納法による。言葉を見ると、先人が何を同質と感じてきたかが分かる。
 たとえば、出世魚は、生物学的には同じものだが、成長に応じて名前が変わる。異なる名前を付けて区別したのは、異質なものとみなされていたからである。化学的組成が同じである水と氷を区別するのも、冷たさや堅さなどの違いに着目して異質なものと見做しているからである。  ただし、言葉と観念は必ずしも一対一対応していない。このことには注意が必要である。


 悟性と対照実験

 対照実験は、特定条件の変化によって、結果の変化を調べ、そこから因果関係を調べます。その際、因果関係を調べたい条件以外は、条件や実験の環境を揃えるのが、望ましいですが、実際には、完全にそろっているわけではありません。たとえば、湿度や空気中の塵は、実験するたびに変わりますが、そのような効果を無視することもしばしばあります。対照実験はある条件以外は同じ条件で行うと言われますが、実際には、同じ条件と悟性によって見做しているだけであって、実際には、異なっているわけです。顕著な例は、実験をする時刻と場所です。これらは、対照実験では必ず異なります。(1)


 悟性と帰納法

 帰納法は、複数の観測事実から、法則性を見出す思考法であるが、ココにも悟性が大きく関係している。AならばBという法則性を見出す際、観測事実に対して悟性を用いて、Aと見做している。
 たとえば、ある人とある人が死んだ結果から帰納した結果、人間は必ず死ぬと結論づけることも、生物は必ず死ぬと結論づけることも可能である。悟性の働きによって、死んだ人を人間の一個体と見做した場合は前者であり、生物の一個体と見做した場合、後者である。


 悟性と測定

 測定は様々な場面で行われ、その測定に基づいて定量的分析が行われている。その測定にも悟性という定性的分析を前提としている。たとえば、熱の単位はcalとしていたが、仕事と同様にエネルギー移動の一形態であると分かると、仕事と同様の単位のJとして測定されるようになった。物理学上は、仕事と熱は同質と見做しているわけである。また、距離と時間を異質なものととらえていたが、虚時間という概念を導入すると、空間と時間は、ある程度の同質性が存在するとみなされるようになった。


 悟性と理論

 科学という客観的事実を探索する営みは、悟性という主観的な営みに支えられているのが分かる。これは定量的分析も例外ではありません。何を同質と見做すべきかは、目的や状況によります。
 たとえば、チェルノヴィリと流出した放射能(ベクレル)を比較することで、福島の影響を推し量ろうとする人がいます。これは、人体の影響を考える上で、流出した放射能を比較するのが適切であると、定性的に判断しているからに他なりません。実際は、流出した放射能は人体の影響を見る上で重要ではありません。ヨウ素1ベクレルとプルトニム1ベクレルの人体に与える影響は、同じではありません。
 あるいは、日本にいる外国人による影響を考える際に、年間のべ1000万人やってくる観光客と年間3万人流入する移民を比較する人がいます。文化摩擦や労働環境に与える影響を考える上で、これらは、同質とはみなせないでしょう。平均一週間だけ滞在しホテルに宿泊する観光客と、3年近く滞在する移民労働者は、文化・労働環境に与える影響は全く違います。定性的分析がおかしいのです。
 科学という営みは、根拠なく正しいと信じている前提の上で、悟性などを用いる主観的営みなのです。


 訂正
1.既存の言葉の意味を理解するのは、帰納法であり、そういう意味では言葉は帰納法も基礎としている。ただ、その帰納法も悟性を基にしている。(2015/2/3)
2.「てにをは」を修正(2015/2/26)
3.言葉と抽象的観念が一対一対応していない事実を追記した(2015/3/13)


 注釈

 (1)時刻や場所が異なることを科学者が問題視しないのは、科学という営みが場所や時刻によらない普遍的法則を調べる営みであるからです。しかし、「そのようなものが存在する」という信念には、それが正しいという根拠はない。もし、過去の実験結果から、帰納的にそのような法則が存在することを推論しようとしても、その推論は無効である。なぜなら、その帰納法は、普遍的法則の存在を暗に前提にしているからである。なお、経済学等の社会学においては、法則(必ずこうなる)というより傾向(こうなることが多い)と言った方がいいかもしれないが。


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