ご無沙汰しておりました。

すっかり秋になりましたね。

コメントの承認も、グルっぽの承認もせず、

申し訳ありませんでした。

私と言えば、この4月からまた職場が変わり、

お昼御飯すらままならない日々を過ごしております。

さて、今日は仲良しな母娘さんのお話です。

お母さまである患者さんは、娘さんのために

やり遂げたいことがありました。

そのためには、とても体力を使うのですが、

どうしても母として、して差し上げたかったのでした。

しかし、娘さんはそんなことより、

体力を温存して、一日でも長く生きてほしかったのです。

娘さんはいつもお母さまにお願いしていました。

しかし、お母さまの決意は固かったのです。

ある日、娘さんが、私にその事を相談してこられました。

普段なら、私はあえて自分の意見は言わず、

聞き役に徹して、その方の中で結論が出るのを待つのですが、

あるいは、価値観や家族の歴史は様々ですから、

あえてどちらかの味方をするようなことはしないのですが、

そのときは、どうしてもお母さまの娘さんを思う気持ちを

叶えて差し上げたくなってしまいました。

お母さまは最期まであなたのお母さまとして生き抜きたいのだと…

その母としての使命を果たしたいのだと…

その言葉に娘さんはハッとされました。

そして、「母のしたいようにしたいと思います。」と、

笑顔でおっしゃいました。

その後、患者さんは、見事にやり遂げられました。

さて、患者さんの思いを娘さんに訴えたことは、決していいことではありません。

時として医療者が患者さんの思いに同調することは

第二の患者さんであるご家族を追い詰めることになるからです。

この時も、私は何度も自分の言動を思い返しては悩んでいました。

しかし、母としていることの姿を強く希望した患者さんを

この娘さんなら受け止めてくださるのではないかと

望みにかけたのでした。

人は誰しも自分に使命や価値を抱いて生きています。

それが崩れたとき、人は生きる気力を失ってしまうのです。

みなさんは、どんな使命や価値を抱いていますか。

私は、がんになり今までの使命や価値を果たせなくなり

生きる気力を失いそうになっている方の側に寄り添うことが

自分の使命だと思っています。
寒い日が続きますが、

皆さまいかがお過ごしでしょうか。

私は昨年は激動の一年で

すっかりblogもご無沙汰になっておりました。

今年も忙しくなりそうですが、

また少しずつ緩和ケアのお話を

お伝えしていければと思っています。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

人は皆、孤独です。


そう言われると、何だか寂しいものですが


やはり、孤独なのです。


私たちは一人で生まれ


一人で死んでいきます。


同じ体験をしても


全く同じ感情は抱きません。


同じ遺伝子でもあっても


全く同じ人間にはなりえません。


決してその人と同じ感情を共有することは


できないのです。


それでも、私たちは


似たような境遇や状況の他人と


感情や経験を共有し


繋がろうと欲し


そしてその孤独を緩和させようと試みるのです。


だからといって


私たち医療者は


目の前のすべての患者さんたちと


同じような経験をすることはできません。


でなければ


私たちはその患者さんたちと


感情や経験を共有し


患者さんたちの孤独を緩和させることは


出来ないのでしょうか。


あるいはしなくてもよいのでしょうか。


感情や経験を共有することは


絶対的に不可能でしょう。


むしろそれを共有(あるいは共感)すると平然とのたまう方が


何と浅はかで偽善的であるかと思います。


しかしそれを共有せずとも


孤独や苦しみを緩和する術を


多くの先人たちが研究しており


私たち医療者はそれらを率先して学ぶべきなのです。


インフルエンザの高熱で苦しんでいるとき


腸炎で腹痛が辛いとき


作ってくれたおかゆや


飲ませてくれた水分や


そして何より傍にいてくれた誰かの存在が


大きかったこと私たちは知っています。


高熱や腹痛の苦しみは当事者でないと分かりませんが


それでも、その誰かの存在に


確かに救われていたのではないでしょうか。


ホスピスの創設で有名な


シシリー・ソンダース氏の言葉に


「Not doing , but being」


というのがあります。


「何もせずとも良い、ただ傍にいるだけで良い」


ご家族も医療者も


まずはこの原点に戻ってみませんか。