得をした、損をした、というのは「人々によりなされる仕事」で量ることです。
アベノマスクの廃棄にかかる費用が6千万円とか言っていますね。確かにもったいない話ではあり、こういうことは無い方が良いに決まっています。しかしこれは『6千万円というカネがこの国から失われた』ことを意味しません。廃棄費用だというのなら、運搬・処分・人件費などに使われているはずです。
たとえば、日本に是非とも実現すべきインフラや科学技術、あるいは介護など身近な分野に関わる長期課題の設定があり、そちらにリソースが取られて「マスクの廃棄とかやってる場合じゃねえ」というのなら、これはもう大変な損失でした。長期計画が遅れることは国益の損失だからです。
しかし実態として「浮いている人や自動車などを動かして、一部の人々が所得を得る機会になった」というだけなのであれば…もちろん手放しでメデタイことだとは言いませんが…国としては特に打撃でも何でもありません。マスクを廃棄したいという需要があり、それを満たすために日本人が働いたというだけでしょう。それで、なにが悪いんですか?

いや、インフラや科学技術なんていう重い話でなくても構いません。
もし、マスク廃棄に関わる業界の人々が超カッツカツの状態でギリギリの仕事をしていて、時間に追われ、設備も人もフル回転で儲かりまくっていたとすれば、

「この上シゴト増やしてんじゃねえクソが!!」

ということになっても不思議ではありません。そのせいでアベノマスク廃棄以外の重要な仕事が後回しになり、誰かが困るのであれば、それは国家としての損失になります。
そうでないなら、国内の余力で需要を片付けたというだけのこと。片付けた人には代金を払いましょう。そんだけです。代金をもらった人はそれを使って、また別の人に別の仕事をさせる。こうして人々の労働は巡っていきます。

だからいつも言っているように、その余力の維持が重要なのです。
現在の日本には、6千万円を出せば「不要なマスクを正しく処分できる人達」が余力として存在していたのです。良かったねえ。
しかしいずれは、人は余ってるけど、マスクの廃棄ってどうすりゃいいんだっけ?…ということになりますよ。そこらの河原で火ィつけて燃やせばいいんじゃね、みたいな国になるのです。または正しい処分ができる業者がアソコしかない、とか。
これが「余力がない」状態です。国民が遊んでいる(=何もせずに寝ている)と、こうなるのです。カネを使わない(=何もせずに寝ている)と、こうなるのです。民間に需要がないときに政府までケチケチしている(=何もせずに寝ている)と、こうなるのです。6千万円は持っていたとしても、マスクが正しく処分できない国になるのです。

国民全体が一丸となって喫緊の課題に取り組むというのは国益上も経済的にも素晴らしいことですが、一定程度は余裕が必要です。しかしその余裕を、真の意味の余裕として維持するのが重要です。余裕は、ほったらかしておくと余裕ではなくなります。例えばまともな橋やトンネルを半世紀も造らないという超余裕をかましていれば、いきなりやれと言われても不可能でしょう。メンテの分野では現に似たようなことをしていますよね。多くの場合、危ない橋は補強や造り直しではなく「ぶっ壊せ」ですから。
しかし残念なことに、この余裕の維持こそが無駄遣い呼ばわりされる典型例なのだから、困ったものです。

人々の仕事が大切にされる世の中になるよう、これからも個人的にできることをしていきます。
みなさま、よいお年をお迎えください。