秀長という人物 | 「ニッポン城めぐり」運営ブログ

秀長という人物

先月、2026年のNHK大河ドラマが、豊臣秀吉・秀長兄弟を描く『豊臣兄弟!』に決まったことが発表されました。といっても、主人公は秀吉ではなく秀長の方、次は関東か九州かと噂される中での予想もしない変化球でした。

 

発表から1ヶ月以上経っていてもう存分に話題には乗り遅れているので、今日はスピード感を求めずゆっくりと秀長の事跡を追ってみたいと思います。

 

豊臣秀長肖像(春岳院蔵)

 

2024年は紫式部、2025年は蔦屋重三郎が主人公で、2026年は3年ぶりの戦国モノということになり、すなわちゆかりの城もわんさか出てくることが予想されます。

 

一方で豊臣秀長という人物、一般的な知名度はどうなんでしょう?自分はもうそのあたりの感覚がバグってるのでよく分かりませんが、秀吉の右腕だったわりには、黒田官兵衛や石田三成ほど著名ではないようにも思います。

 

(実際はそうじゃないものの)華々しい戦歴が知られるわけでもなく、有名なエピソードに溢れているわけでもないので、特にその生涯をソラで言える人は少ないんじゃないでしょうか。

 

ということで、秀長の事跡をゆかりの城をベースに追ってみましょう。

 

 

秀長は、秀吉が武士として取り立てられた頃、最初期の家臣として加わります。当初は秀吉が初めて城持ちとなった長浜城の城代や横山城の城代を務めることもあったようです。浅井・朝倉との戦いにおいても、大いに秀吉の活躍を支えています。

 

秀長の戦歴で特筆すべきは、但馬攻めです。信長から中国方面を任された秀吉は基本播磨にあって、但馬攻略はほぼ秀長単独で実行しています。その結果、天正5年(1577)には竹田城を攻略して領国経営の拠点とし、天正8年には有子山城の城主となって但馬の平定を完了します。生野銀山に着目したのも秀長といわれます。

 

竹田城(兵庫県朝来市)

 

その傍ら、秀吉の三木城鳥取城備中高松城攻めに従軍して戦果を挙げ、信長死後の山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いにも参戦。賤ヶ岳では秀吉の大返しまで田上山城を守ったことで知られます。

 

天正11年、播磨も与えられて姫路城主となり、天正13年には紀州攻めの功績によって和泉・紀伊に所領替えとなり和歌山城を築きます。

 

姫路城(兵庫県姫路市)

 

和歌山城(和歌山県和歌山市)

 

さらに同年、四国攻めの総大将として長宗我部元親を降して大和を加増され、大和郡山城を居城とします。この頃から大和大納言と称されます。ついで天正15年の九州攻めにおいては日向路の指揮官として島津氏を降伏させます。

 

惜しいことにその後52歳の若さで病死してしまうわけですが、この略歴だけ見ても秀吉の戦いのほぼすべてに参加し、着実にキャリアを積み重ねていったことがわかります。しかも秀長の場合、戦働きだけではなくその行政手腕も高く評価されています。まさに文武両道で秀吉の躍進を影で支えた存在といえます。

 

ゆかりの地という点では、居城とした城もメジャーな城ばかり。合戦で足跡を残した場所まで含めると、西日本全域にわたります。2026年、各地に“大河効果”が表れることでしょう。

 

今日はちょっと気の早い予習でした。また1年半後に読み返して放送に備えて下さい。

 

大和郡山城(奈良県大和郡山市)

 


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