詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「資源」ということば(読売新聞の「書き方」、あるいは「罠」)

2024-06-08 21:08:00 | 考える日記

 最近、読売新聞でつづけて「資源」ということばに出合った。いずれも「安保問題」に関してのアメリカ人の発言である。とても奇妙なつかい方をしている。
 ひとつは2024年6月6日の、欧州各国がインド太平洋で「安保を強化している」というもの。アジア安保会議に出席した米調査研究期間ジャーマン・マーシャル財団の中国専門家、ボニー・グレーザー。
 南シナ海、台湾海峡で欧州の艦艇が活動しているのは「(この地域の)安定維持に欧州が貢献する意志があるという中国へのシグナルになっている」と語った上で、こう言っている。

もし米国がウクライナ支援や欧州の安全保障から手を引けば、欧州がインド太平洋に割ける資源は限られ、関与は薄まるだろう。

 もうひとつは、6月8日の記事。元国防次官補代理、エルブリッジ・コルビー。「中国の侵略 今すぐ備えよ」という見出しの記事のなかで、台湾が「アメリカがウクライナ支援を継続すべきだ」と訴えていることに関しての発言である。

 台湾は可能な限り、武装する必要がある。米国の資源には限りがあり、やるべきことを選ばなければならない。

 ふたりが語っている「資源」とは何か。ふつうは、資源というと石油とか水とかを思い浮かべるが、もちろんそうした意味ではない。
 「軍事資源」であり、それは言い換えると「軍備(艦船やミサイル)」であり、もっと言い換えると「軍事費(予算)」である。
 アメリカの予算(あるいはアメリカに同調している欧州の予算)には限りがある。アメリカが単独で世界の安全を守るわけにはいかない。それぞれの国がそれぞれの国を守るために軍事費を増やし(アメリカから軍備を購入し)、アメリカの「仮想敵国」と対応すべきである、と言っているのである。
 「資源」を先のふたりのアメリカ人が、英語で何と言っているのか、私には想像もつかないが、「資源」という同じことばで翻訳されているところをみると、たぶん同じことばだろう。同じ読売新聞の記事なのだから。そして、それがふたりに共有されていることばならば、そのことばはアメリカでは(政治家、軍事関係者のあいだでは)、認識の共有を示すことばでもあるだろう。台湾や日本は(また欧州も)、もっと軍事費を使え。アメリカの負担を軽くしろ、という認識が共有されているのである。

 さて、ここからである。
 ロシアのウクライナ侵攻。もちろん侵攻したロシアが悪いのだが、その背後には、アメリカの「思惑」が動いているのではないか。もし、ロシアとウクライナのあいだで紛争が起きたとき、欧州はどれだけ「軍事費」をつぎ込む決意があるか、それを見てみようとして「裏で」仕組んだ結果、紛争が起きたのではないのか。
 いま、アメリカではウクライナ支援が以前ほどではなくなっている。そして、欧州では武器の供与などが積極的になっている。よくわからないが、その武器にもアメリカの技術や部品がつかわれているだろう。アメリカはヨーロッパで金を稼ぎ、ヨーロッパに金をつぎ込ませている。
 同じことが、これから「台湾」をめぐって行われようとしている。アメリカの「資源」には限りがある。しかし、もし、日本や台湾がアメリカの「資源(軍備)」を購入するならば、その金はアメリカの「資源(予算の増額)」につながるだろう。軍需産業からの「税金」が増えるからね。同時に日本や台湾が軍備を増強した分、アメリカは軍備を減らすことができる。一石二鳥だ。

 ふたりのアメリカ人が「資源」ということばをつかったにしろ、それをそのまま「資源」と翻訳するのではなく、日常的に私たちがつかっていることばに翻訳して記事にすれば、ふたりの発言は違ったものに見えてくる。そうしないのは、読売新聞が、アメリカの戦略にそのまま加担するということである。

 軍隊というのは、基本的に「自分の国を守る」組織だろう。しかし、アメリカがやっているのは「自分の国を守る」ということではない。「警察」となって、世界を支配しようとしている。アメリカが金もうけしやすい国にするために、動いている。アメリカの金もうけに反対する国は許さない、取り締まるという「警察」として動いている。
 その「旗印」として「自由主義」とか「グローバル化」ということばがつかわれている。アメリカの言う「グローバル」は各国の独自性を認めた多様な社会ではなく、アメリカの資本主義によって支配された「単一」の世界である。アメリカの金もうけ各国が協力する世界である。
 アメリカが豊かになれば、その豊かさは世界に還元されるというひともいるかもしれない。安倍政権のときに流行した「トリクルダウン」だが、そんなものは実際には起きなかった。金持ちがより金持ちになり、貧乏人がより貧乏人になった。同じことが起きるだけである。
 実際、同じことが世界で起きたではないか。
 ロシア・ウクライナ戦争の影響で世界中のインフレが進んだ。物価が上がったのは、企業が「利潤」を上げようとしたためである。庶民の給料が物価にあわせてどれだけ上がろうが、その「増加分」は、企業がインフレによって確保する利益の「増加分」には及ばない。企業は企業の利益を確保した上で(露骨に言えば、増やした上で)、労働者の賃金を上げているにすぎない。トヨタが賃上げの結果、利益が激減した、というようなことは絶対に起きないのである。
 さらに軍事費にまわす「予算」が足りないというのなら、国民の税金を増やせ。賃金を上げれば必然的に「所得税」も上がる。それを軍事予算に回せばいいじゃないか。そういう「議論」も、きっとどこかで行われているはずである。トヨタは、たしか組合要求を上回る賃上げを行ったが、これなんかも、私からみると従業員のためというよりは、「国策」(軍事予算増額)に協力することで、政府からの「見返り」を期待してのことだろうなあ。
 だれも言わないが。
 ロシア・ウクライナ戦争にしろ、イスラエル・パレスチナ戦争にしろ、その支援によって、アメリカの軍需産業が大赤字になったというようなことは絶対に起きない。アメリカの軍需産業がウクライナ支援のために武器を無償で提供し、そのために大赤字になった、そして倒産した、というようなことは絶対に起きない。
 いま起きていることと同時に、絶対に起きないことにも目を向けて、ことばを動かしていく必要がある。そして、そのとき、ことばを常に自分の知っている範囲の意味でつかうことが大切なのだ。
 アメリカの軍事専門家が「米国の資源」ということばをつかうなら、「それは、たとえばアメリカの石油のことですか? 電力のことですか? あるいはアップルなどの新商品をつくりだす能力のことですか?」と尋ね、意味を明確にする必要がある。
 かつて、(いまでも)、日本では、何か新しい「概念」で国民をごまかすとき「カタカナ語」がつかわれたが、最近は手が込んできて「漢字熟語」、「既成のことば」もつかうようになってきたようだ。
 
 「新聞用語」(ジャーナリズム用語)には、気をつけよう。

 

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細田傳造『杭』

2024-06-07 22:47:43 | 詩集

細田傳造『杭』(現代詩書下ろし一詩篇による詩集、懐紙シリーズ第十三集)(阿吽塾、2024年05月10日発行)

 何を書こうか。

今から思うと
あの日本人の親切が怪しい
あの朝鮮の役人の怒りがわかる

 この三行は、私には、やはり胸にこたえる。
 ほかにもいろいろあるが、この「正直」の前では、私のことばは何の意味もない。
 私は、そのことについて何の関係もしていないのだが。(そう言いたいのだが。)

 そこで、唐突に、こんなことを書いておく。
 私はときどき外国人に日本語を教えている。きょうの生徒はオーストラリアの外務貿易省で働いている女性だった。通訳の国家試験(オーストラリア)のようなものに優秀な成績で合格しているし、実際に、実務で何年間も通訳をした経験がある。いまさら「日本語を教えます」もないのだが。
 きょうは、欧州各国が、インド太平洋の安保を強化している、中国・ロシアに対抗し、インド太平洋に艦艇を派遣している、というニュースを読んだ。日本に、イタリアやイギリスの空母が寄港するとか、オランダのフリゲート艦が台湾海峡を通過した、というような記事である。なぜ、イタリアやイギリスの空母が日本に寄港するのか、オランダのフリゲート艦がわざわざ台湾海峡を通過するのか(公海だから通過してかまわないが)、ぜんぜんわからない。さらに、その記事の末尾には、アメリカの中国専門家が「もし米国がウクライナ支援や欧州の安全保障から手を引けば、欧州がインド太平洋に割ける資源は限られ、関与は薄まるだろう」と述べ、欧州の関与継続は米次期政権の安保政策がカギを握ると指摘した、と書いてある。
 オーストラリア人によれば、これは「トランプが大統領になれば、ウクライナ支援をやめる。欧州はロシア対応に軍事を集中するので、日本やオーストラリアのことなんか気にしなくなる」という意味である、という。さすが、外務貿易省の前には国防相で働いていたというだけあって、新聞に書いてないことを「深読み」できる。
 で、思うのである。
 アメリカは日本を中国や北朝鮮から守ってやる、というような「やさしいことば」をささやくのだが、それは「親切」だからだろうか。だれの指示かしらないが、オランダのフリゲート艦が台湾海峡を通過しておいて、中国に太平洋に進出してくるなというのは、いったいどういう意味なのだろう。中国が、アメリカや日本が中国の近くで軍事演習をすることに対して「怒り」を表明したからといって、それは「間違った怒り」なのか。
 場当たりの「やさしさ」や「怒り」に反応して、あとになって「今から思うと」ということばを発するようになっては、いけないのである。
 細田は、海に突き出た一本の「杭」があばきだす歴史(それも、なんとなく景色が気になる女性の視点がきっかけであばかれ始める歴史)を書いているのだが、ああ、「歴史」はいつでも、生きている人間のそばで動いていると教えてくれる。どこからだって、「歴史」を語り直すことはできる。そして「歴史」というのは、生きている人間の「生き方」そのものなのである。
 「やさしいことば」「激しい怒り」は目立つが、そうではないことばのなかにも、くみつくせない「歴史」がある。権力の暴力に対しては、そのくみつくせない「歴史」にもぐりこんで、そこから立ち上がるしかないのである、と感じるのである。
 こういうことを、細田の詩の一行一行を引用しながら書くと、細田の詩が細田の詩ではなくなるので(私には、細田の怨念のようなものを正確に書けるとは思えないので)、こんなふうに、奇妙な形で感想を書くしかない。

 「今から思うと」と言わないために、細田の詩を読もう、とだけ書いておく。「今から思うと」と、私は言いたくないのである。もうすぐ死んでいくしかない老人だけれど。


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Estoy Loco por España(番外篇444)Obra, Alfredo Bikondoa

2024-06-06 23:07:05 | estoy loco por espana

Obra, Alfredo Bikondoa 
PUERTA PALESTINA
-2005- Óleo s/lienzo - 195x260 cm.
Colección CIRCA XX - PILAR CITOLER
Museo Pablo Serrano de Zaragoza

 No puedo encontrar las palabras. Las palabras no se mueven.
 Pero incluso entonces puedo escribir: "No puedo encontrar las palabras. Las palabras no se mueven". ¡Qué contradicción!
 ¿Es esto una blasfemia? ¿Pero a quién y a qué? ¿A Palestina, o a mis propias palabras?

 ¿Son mis palabras similares al rojo y negro de este cuadro? ¿Qué significan el rojo y el negro? ¿Qué simboliza? ¿Rojo está intentando moverse?  ¿O Negro está intentando moverse? Simplemente están ahí como una fuerza estrictamente opuesta.
 Puerta Palestina. ¿Está Palestina más allá de la puerta? Al contrario, ¿estoy más allá de esta puerta? ¿La puerta está en Palestina? ¿O está en mi cuerpo? Las palabras intentan convertirse en preguntas y conmover, pero no pueden convertirse en preguntas que conduzcan a respuestas.

 ことばが、見つからない。ことばが、動こうとはしない。
 だが、そのときも、こうやって「ことばが、見つからない。ことばが、動こうとはしない」と書くことができる。何と言う矛盾だろう。
 これは、冒涜だろうか。だが、だれに対して、何に対して? パレスチナに対して、私自身のことばに対して?

 私のことばは、この絵の赤と黒に似ているか。赤と黒は何を意味しているか。象徴しているのか。赤は、動こうとしていることばか。黒は、ことばを動かすまいとしているか。厳しく拮抗する力として、ただそこにある。
 パレスチナの門。門の向こうは、パレスチナか。あるいは、パレスチナから見た私か。それは、パレスチナにあるのか。それとも私の肉体の中にあるのか。ことばは、問いになって動こうとするが、答えにつながる問いになることはできない。

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最果タヒ『恋と誤解された夕焼け』

2024-06-06 13:09:25 | 詩集

 

最果タヒ『恋と誤解された夕焼け』(新潮社、2024年05月30日発行)

 最果タヒは21世紀の谷川俊太郎である、と私は思っている。私には、ふたりはとても似ている。もちろん違う部分もあるが、とても似ているところがある。まだ半分読んだだけだが(49ページまで読んだだけだが)、その最後に読んだ「パール色」という作品にこんな行がある。

血の巡りは独立したまま、
ぼくらは他人のままでいつまでもさみしく、
それなのにとても近かった、

 ここから寺山修司を、あるいは飯島耕一を思い出すひともいるかもしれない。いや、「血の巡りは独立したまま、/ぼくらは他人のままで」ということばを通して、寺山を、飯島を思い出したのは私なのだけれど、その後の展開で、ああ、谷川俊太郎だなあと、改めて思ったのだ。「さみしく」ではなく、次の「それなのに」。
 私は最果の声を聴いたことがない。谷川の声は聴いたことがある。そして、この「それなのに」ということばを、私は谷川のことばを通して聴いたかどうか思い出せないが(それがどの詩につかわれていたか思い出せないが、たぶんつかっていないだろう。なぜなら、それは「キーワード」だからである。「肉体」にしみついたことばであり、谷川にはわかりきってることなので書かない)、「まざまざ」と肉声が聞こえてきた。
 「それなのに」は逆説の接続詞である。反対のものを結びつけるというか、前に言ったこと(書いたこと)を否定し、その先へ進んで行くときにつかことばである。このとき、「それなのに」ということばを発したひとは、ことばが行き着く先をはっきり知っているのだろうか。知ってはいなくても、はっきり予感しているだろう。何かしらの確かさを信じている「それなのに」。
 そして、その「それなのに」は先に言ったことばを(先に存在したことばを)完全に否定しているわけでもない。もし前提がなければ、ことばは先へ進んでいかない。否定はしているけれど、それはことばが先へ進むために必要とした何かなのである。
 だから、というと奇妙な言い方になるが。
 ここには矛盾というよりも、何か深々とした「和解」、あるいは「包容力」のようなものがある。ことばを超える「肉体」そのもののようなことば。だから谷川は書かないが、最果は書く。そこに大きな違いがあるのだけれど、とても似ているところもある。

 もうひとつ似ているなあ、同じことばの動きだなあと感じるのは、最果も谷川も、彼ら自身だけのことばをつかわない。どちらかというと、それは彼らのことばというよりも、だれのものでもあることば、あるいはだれかが話したことばをつかう。シェークスピアみたいに、といえばいいだろうか。ひとが話していることばを受け止めて、それからその声をしっかりと聴いて、そのなかから「自分」を見つけ出してきて語る。そこには谷川がいて、最果がいるだけではなく、もっと多くのひとがいる。その多くのひとのなかへ消えていってしまうことばをつかう。
 そして、違いがあるとすれば、そのときの「ことばが消えていく」先の「ひと」の姿が違うということだろう。別なことばで言えば、「生きている世代」が違う。同じ時代だけれど、同じ時代でも「世代」が違う。
 引用のつづき。

赤い光、青い光、緑の光、
重なれば白くなれると思いながら
それでいいと誰かに言ってほしがっているようだ、

 ことばの「リズム」が違う。音は似ているところがあるのに、谷川と最果では、リズムが完全に違う。
 先の引用した部分でも、「それなのに」をのぞけば、谷川が書けば違うリズムの動きになると思うが、特に、この三行に、それを感じた。最果のことばは、とても急いでいる。谷川が落ち着いて言う部分を急いで言う。最果には、急いで言わないと、だれにも聴いてもらえないという気持ちがあるのかもしれない。それはいまの若い世代(私より若い世代という意味だが)には、とても強いのかもしれない。

きみの心を彗星に乗せて、
さみしさなど追いつけないスピードで、
宇宙の果てに連れて行ってあげる。

 この「彗星の詩」は実は、まだ読んでいない後半に出てくる。帯にあったので、偶然目に留まったのだが、「さみしさなど追いつけない」は谷川も書くと思うが、谷川はそのあとで「スピード」ということばで説明するとは思えない。ここに「スピード」をつかわざるを得ない最果の「急いでいる気持ち」がとてもよくあらわれている。

きみの心を彗星に乗せて、
さみしさなど追いつけない
宇宙の果てに連れて行ってあげる。

 では、最果の詩にはならないのだ。「スピードで」を削除すれば、谷川の詩に、さらに似てくる。「宇宙の果て」ではさらにさみしくなるかもしれない。「それなのに」宇宙の果てに連れて行く。そのときの「スピード」のなかでこそ、「ぼく」と「きみ」はいっしょに生きている。「宇宙の果て」でどうなるか、そんなことは知らない。わかっているのは、いっしょの「スピード」で「いま」を生きているということ。
 
 「浜辺の詩」。

悲しみや痛みに名がなければすべては恋と呼べたのに、
もう涙は海ではないし、すべて愛の言葉にはならない。

 この二行のあいだには「それなのに」が省略されている。「それなのに」と言っていると、その分だけ「スピード」が遅くなる。そうすると、たぶん最果と最果よりも若い世代にはことばが届かないということを、最果は知っている。

 「川じゃない」にも、独特の「スピード」がある。

私の肌はきみと私の間に流れる川じゃない、
私の肌は私のものだ、お前の輪郭を確かめるための川じゃない。
わかる?

 「川」は、聴きようによっては「皮」につながる。「それなのに」、「川」は「皮」に、「皮」は「皮膚」に「肌」につながらない、「川」と「皮」は違うから、もちろん「皮膚」とも「肌」とも違うようなことを言っているわけではないが。
 その「それなのに」を省略したからこそ、「わかる?」と念を押す。
 谷川は、「念を押さない」。「それなのに」とは言うけれど、絶対に「念を押さない」。読者のことばが動くのを、ただ、待っている。最果は「わかる」ということばで、読者のことばを誘い出そうとする。

 「氷の詩」。

きみ優しい子だと言われた回数だけ、
心は柔らかくなり、傷つきやすいまま大人になった。
悲しみを知っている分だけ優しくなれる、
なんて間違いで、悲しみがある分だけ、
昔の私が優しかった証明だった。

 この詩にも「それなのに」が隠れている。このキーワードの隠し方も谷川に似ている。谷川は、しかし「証明だった」とは書かないだろうなあ。「わかる?」と念を押すような書き方はしないだろうなあ、と思う。
 急ぐのが最果のことばの特徴かもしれないし、それが魅力なのだとも思うけれど、急がなくなったことばの運動も読んでみたいなあと思う。私はときどき、その速いスピードに追いつけず、急かせることばを省略して読んでいる自分に気がつくことがある。
 それでは読んだことにならないのだと思うので、こういう感想を書いてみた。「証明だった」まできちんと読んで、それを受け止めている若いひとの感想を聴いてみたい。

 


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杉惠美子「漣」ほか

2024-05-31 16:57:48 | 現代詩講座

杉惠美子「漣」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年05月20日)

 受講生の作品。

漣  杉惠美子

五月の光をうけて
炭酸水のような
撥ねる音を聴きながら
ふくふく膨らむ
あしたを願いながら
さざなみのひとりごとを
聴いてみたい
ありふれた幸せと
ありふれた不幸の中で
ゆらゆら揺れて
誰かとかくれんぼしながら
ずっと かくれていようか
それとも
波のまにまに 見え隠れしながら
ずっと 手を振っていようか
乱反射する月光の下で

 「炭酸水の描写、ふくふく、ゆらゆら、の動きが柔らかくて静か」「浮遊感が自然。気持ちがよくなる詩。五月の光で始まり月光の下でと終わるのは、最初は少し違和感がある。しかし光で統一されていてよかった」「五月の光から月光への変化には、時間の流れがある」「ありふれた不幸からの二行にひかれる。平穏な日々、小さな幸せを感じて生きている」
 杉は「日本画を見て、触発されて書いた。雰囲気を感じ取ってもらえてうれしい」と語った。
 私は「聴いてみたい」という一行について、「聴いていようか」だったら、どうなるだろうか、と質問してみた。他の部分では「かくれていようか」「手を振っていようか」なのに、ここでは「聴いてみたい」と杉が書くのはなぜなのか。
 「身を託していたいから」「独り言のなかに入っていきたい」「聴きながら、と呼応している」
 統一されていたら、詩が落ち着きすぎるかもしれない。「みたい」が「いたい」にかわる微妙な揺らぎがある。書きながら、ことばが動いていく感じがしておもしろい、と私はと思った。
 最後の一行は、私はいらないと思ったが、受講生はどう感じたか。
 「最後の一行がないと動きだけで終わってしまう」「詩の語調が弱くなる」「最後の一行で引き締まる」

緑の中  池田清子

散歩中
遠くに山が見える

濃く深い緑 茶色い緑 山吹色の緑
薄い緑 光る緑

あの緑の中に
身体を横たえられたら
どんなに幸せで美しいだろう

低いけれど急な山
枯葉を踏みしめ
崖を気にしながら
つたいながら 登る

途中切り株に腰を掛けたとき
やっと 緑が見える
自由な樹木たち 空 鳥の声

緑とは
見るもの、撮るもの、感じるもの

緑の木々を背に
自撮りする

 「二連目。さまざまな緑の表現に、緑の力、季節感、その美しさを感じる」「四連目の情景が目に浮かぶ。五連目への変化がとてもリアル。作者の緑に対する安らぎを感じる」「三連目がいいなあ。六、七連目は緑のなかにいる自分を映し込む。最終連の自撮りが池田さんらしい」
 この詩でも、私は、最終連について質問してみた。私なら書かない。
 「現代風、意外性があっておもしろい」「超現実的」「ナルシストかなあ」「緑のなかでの一体感が表現されてる」
 私は、詩には「終わり」がない方がおもしろいと感じるのだが。

若木  青柳俊哉 

春の水のうえで藁が焼かれる
空があり風が吹きつけて 炎が燃える

(藁の匂いが美しい)

藁のうえに蜜柑の若木がおかれる
それは燃えない それは美しくならない

(在ることより 言葉が先へ行く)

子たちが水をわたって遊ぶ
水のむこうに言葉の国がある

ひらかれた空の底から 名づけられた葉が
吹きつける すべてのもののうえで風が燃える

春の水のむこうへ 子たちとともに 
若木が行く 言葉の意志として

 「二連目の表現が新鮮。三連目の蜜柑が予想外だった。それ燃えない、から(在ることにより)のあいだに微妙な感覚がある。水のむこう、風が燃えるという表現も新鮮。最終連には、作者のいろいろな思いを感じる」「一連目、水のうえで、焼かれる、がおもしろい。水をわたって、水のむこう、というのもおもしろい」「括弧のなかの意味がわかりにくい。最後の言葉も括弧のなかに入れてもいいかなあ」「言葉が春のなかにはなたれている。括弧の意味は、段階を踏んで進んでいく感じ」「括弧でくくっているのは、潜在的な思い、メッセージを表現するためにつかっているかなあ」
 こうした感想に対して、青柳は「結論をむりやり書いている感じがするので、括弧に入れる気持ちはなかった。括弧のなかに入れるのも選択肢としてはおもしろい」と語った。
 三連目が非常に印象的、哲学的で、それを生かすには括弧に入れる、入れないは別にして、「言葉の意志として」は若木とは組み合わせず(一行にせず)、独立させた方が強くなると思う。

大いなる古の風よ  堤隆夫

からだの中に吹く 
大いなる古の風よ

私たちのからだの中には 宇宙がある
私たちのからだは 星のかけらでできている
六〇兆もの私たちのからだの細胞は 星のかけら

私たちの遺伝子は 三十八億年前に生まれ 
そこから進化を遂げてきた
一度だって途切れることなく 続いてきた原始からの力を
私たちは連綿と 受け継いできた

だからこそ 私もあなたも 今 ここにいる

白銀の大海原は はるかに
綿津見の神は 琥珀を織り
かつて聞こえしためしなき 機織りの歌

大いなる古の風よ
もっと吹け もっと荒れよ

とまれ 私たちの憂いを 
白銀のあなたに 運び去るのだ

 「ダイナミックな詩。古の風、宇宙そのものが体のなかにあるということが理論的に述べられている。白銀の大海原で詩が転換する。最後の運び去るのために必要だったことがわかる。大海原が私たちの大きな比喩」「スケールが大きい。五連目の、機織りの歌が印象的。太古から続く人間の憂いを放ちたいのかなあ」「三十八億年前ということば。生命の歴史の知識がないので、そうなんだ、と思いながら読んだ。知識があれば、もっと柔軟に読めるかもしれない」
 この詩でも、わたしは終わり方について質問してみた。
 「もっと荒れよ、で終わったら何かおさまらない。荒れて、おわってしまう」「力強い終わり方」「ないと、おかしい」「作者の訴え。なかったらイメージが広がるが、訴えがわからなくなる」
 私は、荒れて終わった方が、どうなるかわからなくて、わくわくする感じがする。最終連は「とまれ」が象徴的だが、「まとめる」(まとめた)という印象が強い。つまり、「作為」が感じられる。
 これはむずかしい問題で、ひとりひとりの好みも大きい。


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Estoy Loco por España(番外篇443)Obra, Jesus Coyto Pablo

2024-05-27 23:15:13 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo 
"En el jardín" encáustica oleo, Año 2000, 70x70 cm.

 Aunque debió florecer en varios colores y en forma de varias flores, sólo puedo recordar dos flores. Dos colores. Otros se vuelven ligeros y desaparecen en el mundo. Una es la flor que cultivé. La otra es la flor que cultivaste. Ese soy yo. El otro eres tú. Ese es mi corazón. Ese es tu corazón. Eso es lo que recuerdo. "Ese es mi corazón. Ese es tu corazón". ¿Lo dije yo o lo dijiste tú? ¿Lo escuché yo o lo escuchaste tú? Ya no lo sé. Ya no puedo notar la diferencia. Dos, definitivamente dos. Al ser dos, nos convertimos en uno. Para que el pasado y el presente se vuelvan "uno" en el momento del recuerdo. Las palabras eran confusas y los pensamientos estaban dispersos y dispersos, pero todo lo que puedo recordar fue un solo momento. Ese día, ese jardín.

 

 さまざまな色が、さまざまな花になって咲いていたはずなのに、思い出せるのはふたつの花。ふたつの色。すべては光になって消えていく。あれは、私が育てた花。もうひとつは君が育てた花。あれは、私。もうひとつは、君。あれは、私のこころ。あれは、君のこころ。思い出すのは、そのことば。「あれは、私のこころ。あれは、君のこころ」。私が言ったのか、君が言ったのか。私が聞いたのか、君が聞いたのか。もうわからない。区別がつかなくなった。ふたつ、たしかにふたつ。ふたつであることによって、ひとつ。過去と、いまが、思い出す瞬間に「ひとつ」になるように。ことばは乱れ、思いはいくつもに散らばってひろがったのに、思い出せば、たった一瞬。あの日、あの庭。

 

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ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」(つづき)

2024-05-26 13:50:53 | 映画

 きのう書けなかったことのつづき。
 「距離」を考えるとき、きのう触れなかたっふたつのシーンが気にかかる。
 ひとつは、ラストのアウシュビッツ資料館(?)の映像。収容されたユダヤ人の鞄、靴が積み上げられている。その前にガラスの仕切りがある。そのガラスが気になる。私はアウシュビッツを訪問したことがないのでわからないのだが、あるガラスのせいで、ずいぶんこころが落ち着くのではないだろうか。(落ち着くという表現でいいかどうかわからないが、とりあえず書いておく。)もしガラスの仕切りがなかったら、その鞄や靴がもっている匂いが直接肉体に迫ってくるだろう。触感(実際に触れるわけではないが)も、ずいぶん違ってくるだろう。あのガラスによって、「距離」が一定に保たれている。そこに「一定の距離」が生まれてしまう。近づきうるかもしれないのに、近づけない「拒絶の距離」。それは、そこを訪問したひとが「近づけない」と同時に、そこにある鞄や靴も「近づけない」ということである。訪問者からすれば、それは絶対に私には触れてこないという安堵感となるかもしれない。どこかに、自分は「関係がない」という意識を生み出すかもしれない。「関心」がそのまま「関係」にはならないのだ。
 「客観的」になることは大事だ。だが、「主観的」になることも大事なのである。その「主観的」になることを、あのガラスは妨害していないか。これは、映画そのものへの評価とは関係がないことなのかもしれないが、ちょっと気になった。そんなことが可能かどうかわからないが、「フィクション」になったとしても、あのシーンが、ガラス越しではなかったとしたら、とても強い衝撃が生まれたと思う。
 もうひとつは冒頭のシーン。灰色、あるいは黒。私は目が悪いせいかもしれないが、その一面の暗い灰色が、特にスクリーンの端が(上辺だったり、下辺だったり、右だったり、左だったり、隅っこだったりするのだが)、ときどき薄っすらと明るくなる、それが揺れる。ちょうど煙の先端が揺れるように。あれはきっとホロコーストのときの煙を描いているのだと思うが、そのときのカメラは煙の真っ只中にある。風が吹いてきて、煙が揺れるので、ときどきその端っこが明るんで見えるのである。そう思ってみていた。それはまるで自分が焼かれたとしたら、そのときに見る煙と空(光)の関係かもしれないと思った。煙は絶望。光は、それでは希望なのか。そうではないだろう。やっと苦しみから解放されるという望みだとしても、そんなものはことばがつくりだす幻想であって、光を感じたからといってそれが希望であるはずがない。そこには「距離」というものはなく、ただ「真ん中」があるだけなのである。「真ん中」を定義するのが「周辺」の光の揺らぎなのである。
 この映画では、アウシュビッツの「真ん中」が描かれるのは、この冒頭の煙だけてある。見た瞬間に、アウシュビッツの真ん中に放り込まれ、それからあとはアウシュビッツに接続した(距離のない)外側が描かれる。その「真ん中」と最後のアウシュビッツの資料館が、主人公たちの生活を挟み込んでいるという構造なのだが、つまり、「真ん中」がひっくりかえるようにつくられている映画なのだが。
 この煙のシーンにかぶせられた音楽が、私には、どうにも過剰なものに思える。ひとのうめき声とも感じられる、一種、不気味な、不安をあおる音なのだが、このシーンには音がなかった方がよかったのではないか。あったとしても自然の音、風が揺らす木々の葉の音、川の流れる音、鳥のさえずり。人間のやっていることとは無関係に生きている自然の音、あるいはそれされも消してしまう「沈黙」という音。
 「沈黙」にも音がある、というのは、きのう書いた少女が奏でるピアノの音にも通じる。それは、その音楽を書いたひとが絶対に聞くことのなかった音(彼、あるいは彼女にとっては「沈黙」の音)だった。その音楽に重ねられた歌詞(実際には字幕だけ)もまた、その音楽を書いたひとには聞くことのない「沈黙の音」だったし、ピアノをとつとつと弾いている少女にとっても「沈黙の音」だった。そういう「沈黙」が結びつけるこころ、「沈黙」が消してしまう「距離」というものもある。
 アウシュビッツに残されている鞄や靴。その「沈黙の声」は、「沈黙」であるがゆえにガラス越しでも「同じ」かもしれないが(そう言うひとがいるかもしれないが)、私はやはりガラスがない方が「沈黙」が厳しく迫ってくるように感じられる。「沈黙」が匂いのように肉体をつつんでくるように感じられる。

 何に触れるのか、何に触れないのか、何を聞くのか、何を聞かないのか。「客観」ではなく「主観」の問題なのである。「主観」が、問われている。

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ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」(★★★★★)

2024-05-25 21:17:19 | 映画

ジョナサン・グレイザー監督「関心領域」(★★★★★)(Tジョイ博多、スクリーン5、2024年05月24日)

監督 ジョナサン・グレイザー 出演 クリスティアン・フリーデル、サンドラ・ヒュラー

 注目したのはふたつのシーン。
 ひとつ目は、リンゴをひそかに配給(?)していた女性が、お礼の楽譜をみつけ、それをピアノで弾いてみるシーン。無残に殺され、死んでいくしかない人間がつくりだした、その音。彼は(彼女かもしれないが)、その音を実際に聞くことはない。音楽家の頭のなかには音が鳴っているかもしれないが、それはあくまでも抽象的なもの。ピアノであれ、人間の声であれ、なにかによって現実の音になる。そして、不思議なことに、その現実の音を聞くとき、私たちは現実の音以外のものをも聞き取る。その音楽をつくったひとのこころ、夢や願いを聞き取る。それをことばにすることはむずかしいが、ことばにならない何か、あるいはことばにしなくてもいい何か。それを聞き取り、そのひととつながる。音を聞いたのか、音楽をつくったひとのことばにならないことばを聞いたのか。これは、区別しなくてもいい。それは便宜上、ふたつわけただけであって、区別できないものだからだ。そして、これは、音楽を書いたひとと音楽を演奏してみたひとが、けっしてあわない、離れているからこそ、強く結びつく。その結びつきに、「距離」がなくなる。
 映画では、この曲に詩がつけられており、歌声が流れる。それは映画のなかの「現実」には存在しない音 (ことば)なのだが、そういう完全に別なものとも結びつき、やはり「距離」というものを消していく。こころは、どんな「距離」をも超越して結びつき、そこからまだ存在しない世界をつくりあげていく力を持っている。短いシーンだが、ほんとうに美しい。
 もうひとつは、クリスティアン・フリーデルがアウシュビッツからベルリン(?)に栄転(?)したあとのシーン。ラストの直前、執務室から出てきた主人公が、階段で吐いてしまう。二回、吐く。どうしてだろうか。アウシュビッツの残酷さがわかったからである。残酷さというような、軽いことばでは言えない、どうしようもない何ものかが肉体に遅いかかって来たからである。こんなことを書くと、ホロコーストに関係した人間を許しているように聞こえるかもしれないが、あえてそう書くのは、ここでもやはり「距離」が問題になるからである。
 この映画の主題は「距離」なのである。
 アウシュビッツにいるとき、そこの所長をしているときは、アウシュビッツの残虐とかれの肉体のあいだには「距離」がない。それが見えない。同じように「距離」のない場所に、美しさがあるからだ。美しい家、美しい妻、美しいこどもたち。庭の緑、豊かな自然。彼は、いつでも、それにどっぷりとつかり、すぐそばにある「美しくないもの」を消してしまう。美しいものに触れていれば、醜く、酷たらしいものは消えると思っている。洗い流せると思っている。自分を清められると思っている。だから、ユダヤ人の骨が流れてきた川から逃げ帰ると、家でからだを洗う。こどもたちのからだも真剣に洗い清める。ユダヤ女性とセックスしたあとはペニスを洗い清める。
 ところがベルリンに来てみると、彼を洗い清めるものがない。彼のまわりには、美しい妻も、美しいこどもたちも、美しい家もない。彼らは、アウシュビッツの家にいることを選び、主人公だけがベルリンに単身赴任(?)している。そして、遠く離れて、その「距離」を思うとき、その「距離」のなかにアウシュビッツが押し寄せてくる。アウシュビッツにいたときは、収容所と家のあいだには「塀」があったが、ベルリンに来てみると、「塀」が見えない。「塀」がアウシュビッツを隠してくれない。「距離」のなかに「塀」が飲み込まれて消え、「塀」を越えてアウシュビッツが迫ってくる。
 そしてそのとき、彼はまた、こんなことも考えているに違いない。美しものを愛し、美しさにこだわった妻。そのこだわりは、夫や家族といっしょにベルリンへ行くことを拒絶した。その拒絶には、醜さはないのか。自己中心的な残酷さはないのか。そして、その自己中心的な美への愛好、そのつまらない感覚こそ、アウシュビッツを存在させたものなのである。ひとのことは知らない。自分が幸福だと感じられるのがいちばん大切。見たいものだけを見るのが人間なのだ、見たくないものは隠して見なかったことにするというのが人間なのである。
 ところで、この「距離」であるが。
 人間の「距離」は、実に、不思議なものである。「近く」にあるときは、「遠く」にあるときよりも簡単に「遠ざける」ことができるのである。隠すことによって、「見なかった/聞かなかった」、あるいは「気づかなかった」と言えるのである。もちろん、それは嘘であるが、人間は簡単に嘘がつけるし、脳は自分の都合がいいように嘘を納得するものである。つまり、嘘に慣れる。嘘と思わなくなる。
 一方「遠く」にあるものは「遠ざける」ことができない。すでに「遠い」から「遠ざける」には意味がない。そればかりか、「遠い」から隠すこともできない。逆に「遠く」にあるものは「近づける」というか、こころが「遠く」までいってしまうのである。「遠い」からこそ、こころが「会ってしまう」のである。こころが会いに行った、「近づいて行った」のだから、そこには嘘がない。もちろん「嘘をつくため(だますため)」に近づいていくひともいないわけではないだろうが、たいていは、ひとはほんとうのこころで近づいていく。
 「近づいたもの」(近くにあるもの)をひとは愛してしまう。塀によってアウシュビッツのホロコーストが遮られ「遠ざけられる」とき、塀に守られた「近くにあるもの」(美しい家、美しいこども)を妻が愛してしまう、そしてそれを手放すことを拒否するのは、とてもとても単純なことなのだ。
 だからこそ、「距離」である。
 主人公の妻、サンドラ・ヒュラーの母は、遠くから娘に会いに来た。そして、その美しい家を見た。しかし、同時に塀の向こうで行われていることを、匂いと音によって知った。匂いや音は「塀」には遮られない。彼女は自分で「隠した」のではないから、「隠されたもの」が気になる。それを「見つけてしまう」。「距離」が「視覚」とは違った形で人間に作用する。そして、その隠された「近さ」(見つけてしまった衝撃)に耐えられずに、ひとりで逃げるように「遠ざかっていく」。「遠ざかる」ことで、自分を守る。クリスティアン・フリーデルやサンドラ・ヒュラーは「遠ざかる」のではなく「塀」によって視線を「遠ざけた」。「距離」を演出したのである。

 さて。
 ふたたび「距離」である。
 アウシュビッツを考えるとき、そこには「時間の距離」があり、また「空間の距離」もある。(日本からは遠い)。また「残酷/残虐」とは何か、という「哲学的距離」もある。ホロコーストの実際の執行者を動かしていたのは「凡庸さ」であるというのは、ハンナ・アーレントの指摘だったが、それはこの映画でも描かれている。美しい家庭がいちばん大切というのは「凡庸な結婚した女性」の考え方のひとつである。「凡庸さ」というのは、だれにとっても非常に身近である。「距離がない」。ここから、どうやって「距離」をつくりだしていくか。その「つくりだした距離(思考のことば)」で、アウシュビッツをどれだけ自分に「近づける」ことができるか。ことばの運動は、時間の距離も空間の距離も、確実にかえることができるはずである。そのための、ことばを運動をはじめなければならない。私はいま、この映画によって試されている。お前は、いったい、どんな「距離」をとろうとしているのか、と。

 

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Estoy Loco por España(番外篇442)Obra, Luciano González Diaz

2024-05-24 18:13:33 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz 

 Leer libros significa amar los libros, amor las palabras.
 Pero eso no es todo.
 Lo que quiero decir es que los lectores están amados por los libros y las palabras.
 El libro, las palabras escritas en él, convirtieron a este hombre en un gigante. Porque el libro y las palabras amaban a este hombre. Ese amor es ilimitado, como el amor de la madre.
 El hombre que está absorto en libros no sabe cómo crece su cuerpo ni hasta qué punto su mente se expande y se fortalece.
 Sin embargo, cuando miro esta escultura, lo entiendo. El libro lo ama y las palabras lo aman, por eso este hombre puede convertirse en el gigante que supera con creces a los humanos.

 本を読むことは、本を愛すること。ことばを愛すること。
 しかし、それだけではない。
 なによりも、本に、ことばに愛されることだ。
 一冊の本が、そこに書かれていることばが、この男を巨人に育てた。本が、ことばが、この男を愛したからだ。その愛は、母親の愛のように無限だ。
 本に夢中になっている男は、彼のからだがどんなふにう育っているか、こころがどこまで広がり、強くなっているか知らない。
 しかし、この彫刻をみると、私にはわかる。本が彼を愛し、ことばが彼を愛したからこそ、人間をはるかに超越する巨人になった、なれたのだと。

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Calros Ruiz Zafonと村上春樹

2024-05-19 21:54:10 | その他(音楽、小説etc)

 Calros Ruiz Zafonはスペインの作家(故人)。「La Sombra del Viento」は世界的なベストセラーになった。多くのひとが「おもしろい」というので、読み始めた。私のスペイン語は、NHKラジオ講座入門編のレベルなのだが、どうせなら分厚い本を読んでみようと思ったのだ。
 最初は辞書を引き引き読んでいたのだが、なんだか面倒くさくなった。辞書を引かなくても、おおよそのストーリーはわかるかもしれない、と思ったのである。
 たとえば33ページには、主人公ダニエルとクララという女性の会話があるのだが、そこで彼女は、こんなことを言う。

Nunca te fies de nadie, Daniel, especialmente de la gente a la que admiras.
(だれも信じちゃだめよ、ダニエル。特にあなたが崇拝しているひとを信じちゃだめよ。)

 で、この部分を読んだ瞬間、私は、あ、ダニエルはクララに裏切られるのだと思った。そして、そのとおりのことが後で起きた。そこから、私は辞書を引くのをやめた。この作家は、読者が想像する通りのことを書いている。そこには新しい人間は出てこない。なぜ、このひとはこんなことを考えるのか、こんなことを言うのか、という人間は出てこない。まるで村上春樹の小説だなあ、と思ってしまったのだ。「意味」が最初から最後まで、とてもわかりやすく「配置」されている。ストーリーが、すべて「意味」になっている。それも予想された通りの「意味」である。
 小説にかぎらないが、おもしろい作品というのは、その作品のなかで何かが起きたとき、なぜ、そんなことが起きるのか。なぜ、ひとはそんなことをするか。わからない。しかし、起きてしまった後、ああ、そうなんだなあと納得する。そうするしかないなあ、と気がつく。
 それが、この「風の影」にはない。
 私は、わからない部分(ほとんどだが)を読みとばしているから、その読みとばした部分にこの作家の「魅力」が隠れているのかもしれないが、どうも、そんな気がしない。細部がわからなくてもかまわない、という感じの小説なのである。

 私はときどき外国人に日本語を教えている。そのとき、村上春樹の小説は、とてもつかいやすい。外国人にとってわからない語彙があったとしても、その語彙はかならず別のことばで説明されている。そして、読んだことばを裏切らない形でのみ、小説のストーリーは展開する。なぜ、そういうことが起きるのか、という疑問が起きない展開になっている。(別なことばで言えば、伏線がていねいにていねいに張りめぐらされている。)その結果、途中で何かを読み落としたとしても、作品を読み通すのに、たいして問題にならないのである。あそこを読み落とすと、作品の展開(意味)がわからなくなるということはないのである。なんといっても伏線がていねいだから、ひとつふたつ見落としてもなんとなく読み進めることができるし、結末にも納得できる。
 なるほどなあ、瞬間的なベストセラーというものは、こういうものなんだなあ、と思う。
 まあ、読んだとは言えないような語学力で読んでいるので、間違っているかもしれないけれど。
 この「風の影」に比べると、Juan Rulfoの「ペドロ・パラモ」は刺戟的だった。私は辞書を引き引き二回読んだが、読み足りない。また、読みたい、と思っている。会話なんかは、非常にぶっきらぼうで、こんな会話に何か意味があるのかと思うような内容なのだが、その短いことばひとつひとつが、登場人物の「人格」そのものなので、活字を読んでいるというよりも、登場人物と向き合っている感じがする。言っていることは、クララと違って「無意味」なのに、その「意味」にならないところが逆に強烈なのである。「意味」を無視して、人間が動いてる、その動きそのものが見えてくる。
 先に引用したクララのことばは、「意味」だけが生き残って動いていくのであって、クララは動いていかない。いや、動いていくのだが、「意味」のままに動いていく。
 最後まで読めば違った感想になるかもしれないが、そんなことを考えた。

 

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「落下の解剖学」と「悪は存在しない」

2024-05-19 20:51:51 | 映画

 最近評判になった二本の映画。共通点は、脚本がともに完璧であること。違いは、「落下の解剖学」には偶然というか、発見があるが、「悪は存在しない」には偶然の発見がないということ。
 具体的に言うと。
 「落下の解剖学」は、前に書いたが「音」がキーポイントになっている。起承転結の「転」の部分で、少年の弾くピアノの音が突然透明な輝きを発する。びっくりすると同時に、その瞬間、少年の「こころ」がわかるのだが、驚いているのは私(観客)だけではない。弾いている少年もびっくりしている。自分には、こういう透明な音楽を演奏することができるのだ、と驚いて、自分の弾いた音を聞いている。音楽に限らず、あらゆる芸術に触れているひとは、こういうことを体験したことがあると思う。ぜんぜん、うまくならない。しかし、ある瞬間、何かが自分のなかで起きたかのように、信じられない「作品」が生まれてしまう。その瞬間、自分の可能性を発見する。そのよろこび。
 あれは、単に、長い間練習したから(裁判の間中練習していたから)、当然うまくなったのだという「時間経過」を描いているのではない。何かが突然自分のなかにやって来て、いままで達成できなかったことができてしまったという、一種の「発見」なのである。
 そして、その「発見」がきっかけとなり、少年はそれまで見落としていたものを次々に発見していく。具体的に言うならば、父が車のなかで語ったことばである。あれは、犬のことを語っていたのではなかった。父自身のことを語っていたとわかったとき(発見したとき)、世界が違ったものになってあらわれてきた。世界が美しいものになった。わからなかった世界が、くっきりと見えた。ピアノを弾いたときも、その「音楽」の世界が少年にくっきりと美しく輝いたのだ。あの音は、それを証明している。
 その後、少年がピアノを弾くシーンがなかったことが象徴しているように、あれは「偶然」うまく弾けてしまった美しさであり(つまり、その後、同じ美しさで少年がピアノを弾けるわけではない)、だからこそ、見逃してはいけない(聞き逃してはいけない)重要なポイントなのである。そして、少年はそれを知ったからこそ、偶然気がついた「世界の美しさ」を証言するのである。
 「悪は存在しない」には、こういう「偶然」の発見がない。映画のなかで、だれかが、だれか自身であることを「超越」してしまう瞬間がない。人生にはいろいろな「偶然」があり、それは起きた後で、あれは「必然」だったとわかる。それが「落下の解剖学」にはあるが、「悪は存在しない」には、ない。
 「薪割り」のシーンを「偶然」と見るひとがいるかもしれない。やってみるとむずかしい。言われた通りの姿勢でやると、割れる。気持ちがいい。そこには発見がある、というかもしれない。しかしねえ、あれが男ではなく、女がやって「気持ちよかった」(私は生き方をかえる)というのなら「発見」かもしれないが、男がやったのでは「予定調和」である。それが、くだらない。(ここで、男と女を、こんなふうに「定義」するのは、一種の男女差別かもしれないが。)
 「人間は、こうなふうにして変われるか(こんなふうにして新しく生き始めることができるのか)」ということを、小さな発見(小さな偶然)といっしょに描かれているとき、その作品は傑作になる。そういうものがなければ、ただのウェルメイドの作品である。


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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(106)

2024-05-18 22:36:51 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 「ボイオチアの形象」は、エリティス特有の、ことば数の多い詩。そのなかにあって、

しかし、ここ、夜は眠りに忠実に侍べり、

 とことばが少ない。だが、その少ないことばのなかにあって、「侍べり」がおもしろい。普通は「はべり」ということばをつかわない。「忠実に」ということばといっしょにつかわれているので、ここでは「そばにいる」くらいのイメージだと思うが、この瞬間、「夜」が人格をもってあらわれてくる。それにあわせて「眠り」も人格をもってあらわれてくる。「眠り」に人格がつけくわえられるというよりも、「眠り」が人格をもってあらわれるとしかいいようのない、不思議な奥行きが生まれる。
 そして気づくのだが、エリティスの詩に登場する「もの」はすべて「もの」ではなく、人格をもった「いきもの」なのである。それは互いに交渉している。そして、その交渉というのはエリティスが仕組んだものというより、「もの」がそれぞれに自立して動き回った結果として生まれてくるものだ。詩は、「ことばのポリス」であり、「ことば」は人格なのだ。
 そうした特徴を、中井は「侍る」という動詞一つで支えて見せる。

 「ポイオチアの形象」。

苦い形象が風を高貴にする!

 突然あらわれる抽象的な一行。詩のなかのことばは、ことばとことばがぶつかりあい、それぞれがもっている具体的なイメージを捨て去り、とんでもない抽象をことばの内部から発散するとき、見たことのない光が生まれる。大きなことばがぶつかれば、大きな閃光が炸裂する。小さいものがぶつかるとき、それは光であると同時に、そのまわりに闇を抱え込んだ何かに見える。闇をつくりだしながら、同時にその内部に一点の光をはらんでいる感じ。
 それこそ「苦い」という感覚に似ている。
 ここに書かれている「高貴」は、「苦い」によってより強くなる「高貴」は、私には何か「わび・さび」のようなものに感じられる。否定によって、内部が強度になる。

 

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中井久夫訳『現代ギリシャ詩選』読む(105)

2024-05-18 21:15:29 | 中井久夫「ギリシャ詩選」を読む

 書き漏らしがあった。リッツォスの詩が2篇「宵」と「軽やかさ」、エリティスの詩も2篇「エーゲ海の憂愁」と「ボイオチアの形象」。

 リッツォスの「宵」。

静かに微笑みながら、美しく、

 詩は「美しい」を「美しい」ということばをつかわずに書くことだろうけれど、そんなことは百も承知で「美しく」と書く。そして、それをそのまま翻訳する。
 ここには、大きな秘密がある。
 一行だけの引用と決めて書いているので謎かけのようにして書くしかないのだが、この一行のほかの行は、こんなに単純ではない。暗示的だし、不気味でもある。何かしらの「不安」を含んでいる。それを拒絶して、ここには「美しく」が存在している。「静か」も「微笑み」も、そうである。この一行だけが、特別に、シンプルに書かれている。平凡に書かれている。
 それが、ぐい、と迫ってくる構造になっている。

 「軽やかさ」。

月は銀の眉毛。水面に屈折して。

 「宵」とは一転して、複雑な一行。特に句点「。」が効果的だ。原文は、どうなっているのだろう。句読点も気になるが、ことばの順序も気になる。
 中井の訳では、視線は空から水面へと移動するのだが、ほんとうはどうなのか。そんなふうに動いたのか。むしろ逆ではないのか。水面に映った月を見る。それから空を見上げたのではないのか。でも、それでは、この詩の複雑さを具体化できない。
 水面に映った月を見たのだが、そのとき詩人は水面を意識していない。月に意識が集中している。それから、ほんとうにこれは月の影(光、日本語には「月影」という興味深いことばがあるが、これはまさしく「月影」である)を見て、それを空に確認し、そしてふたたび水の上に確認するという、複雑な運動があったのだと思う。
 そうした視線の運動を意識しているからこそ、単なる「倒置法」ではなく、「倒置法」であることを否定するために句点で、一行を切断している。切断しながら、接続するという運動を明確にすることで、詩全体の構造、リズムを明確にしている。
 原文を知らずに想像で書くのだが、原文と比較すれば、中井の訳の狙いが確認できると思う。詩とは「意味」ではない。「ことば」そのものであり、「リズム」なのである。「リズム」とは「運動の調子」である。不規則を含んだ規則である。あるいは規則を含んだ不規則である。

 

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青柳俊哉「運動」ほか

2024-05-16 23:01:10 | 現代詩講座

青柳俊哉「運動」ほか(朝日カルチャーセンター福岡、2024年05月06日)

 受講生の作品ほか。

運動  青柳俊哉

樋の綻びからくずれおちる雨の言葉

雨の音にふれる時 
わたしは水の中にある
潮水の神話がみみもとをながれおちる

蝋梅の香にふれる時
蜜を吸う蜂の口が斜めにさしかけて
ほそくながくわたしはふるえる

氷の火山で空をおおう潮水の上昇気流
松林の根をうるおす雪の羽毛の神話

地に空にわたしはひろがり
わたしから離れる


 世界に言葉の分子がただよう-

 「一行がすーっと入る。たくさんのことば、イメージが重なるが、タイトルがさっぱりしている。詩に対する姿勢がタイトルと最後に書かれている。ただ最後の一行はなくてもいいのでは」「『蜜を吸う蜂の口が斜めにさしかけて』という一行が好き。地上から宇宙へ旅立つ感じ、アウフヘーベンする印象がある。最後の一行がいい」「潮水の神話』『羽毛の神話』が青柳さんらしい。ことばの拡散、分散を感じる。ことばが宇宙を反映している」「一、二、最終連が好き」「一行目がいい。二連目も好き」
 最後の一行に関して好き嫌い(?)がわかれた。
 ことばの自由な運動(いわゆるリアリティーにとらわれずに、ことばがことば自身のもっている法則(?)やリズムに従って発展していく運動)がテーマというか、その運動を書くというのが青柳の詩。そこにはいわゆる現実世界の論理ではなく、想像力の論理、ことばの運動そのものの論理がある。
 そのことば自身の論理、あるいは自立した運動という点からみると、四連目は急ぎすぎている印象がある。「氷」と「雪」の呼応があるのだが、その呼応のあいだを動いているものが速すぎてつかみきれない。「一、二連目が好き」という受講生がいたが、そこには雨、水、流れるという連絡があり、くずれ「おちる」、ながれ「おちる」という呼応もある。言葉と音、みみの連絡もある。ことばが連絡し合うとき、その連絡のなかからおのずとイメージが湧き出てくる。それは青柳が意図した通りに読者に届くかどうかはわからないが、読者はその運動を手がかりに自分のことばをみつめる。その瞬間に、詩が動くと思う。
 もう少し長い方が静かな(そして激しい)運動が明確になるのでは、と思う。
 

緑さす  杉惠美子

トンネルを抜けると
眩しい緑が 彼を迎えた
その光の中に
まっすぐに
彼は走り去って行った

その山路の直線的な空気感と
蛇行する空気感を
私は知らない
私は帰り道を失っていた


  ある時 彼方から優しい風が吹く道に
  出会い
  立ち止まれば
  優しい陽だまりに包まれた

  私はわたしを 全身で攪拌し続けた日々のことを
  少し思い出していた

  そして時折
  その日の感覚はいつも今にあるという
  断片に圧せられる瞬間に会う

 「一連目が切ない。三連目に彼があらわれてくれて、やさしい気持ちになれた。最後の一行の表現がいい」「深い詩。最後の二連が印象的。過去はいつも、いまの横にある。ことばが胸に迫ってくる」「私は帰り道を失っていたのあと、三連目に愛を感じた。深い詩」「最初の二連は現実。そのときの心情。『直線的な空気感』がいい。三連目以降は作者の内面。記憶の底にある何かを探し出そうとしている」
 この詩を深くしているは「少し」と「時折」だと、私は思う。真剣に、いつでも(いつまでも)思い出すというのは、それはそれで意味があるし大事なことなのだが、それでは「いま」というものが苦しくなりすぎるだろう。「少し」とはいっても、思い出す瞬間にそれは「少し」ではなく、その瞬間のすべてである。「時折」といっても、その「時折」は「いま」のすべてでもある。
 くりかえされている「その」ということばも大事である。「その」ということばが、過去をしっかりとつかまえてくる。杉には、その「その」が何を指しているか、はっきりわかっている。そう教えてくれる。その「その」と対峙するような「ある時」の「ある」も効果的だ。
 「去って行った」のに「出会う」、「去って行った」から「会う」。そこに、切実さがある。

白バラの声  堤隆夫

わたしの身と心に 詩があるかぎり
詩が死であるはずもなく
死は わたしのまわりのどこにもない

たった一人のあの人が 亡くなったという史は
詩の始まりであって 死の始まりではない

今朝 白バラの声に起こされた
白バラの声は たましいのレジスタンス
あなたは今も生きている

生きてゆくことは 正しいことでも強いことでもない
生きてゆくことは 弱くある自由を保つこと
わたしだけの史の歩みを続けること

生きてゆくことは 混沌から抜け出すために
百三十億年前の星のかけらの光を
手づからすくい取ること

今になってわかる
見えるものと見えないものとの陥穽に
わたしだけの自由は しめやかに沈んでいた

わたしの胸の底の貝殻の記憶の中
白バラの声は たましいのレジスタンス
あなたは今も 生きている

あなたの姿が見えない今 
あなたへの思いが募るばかりの今 

弱くあることの自由によってしか 
開けることのできない
希望への扉があることを知った

 「格調高い詩。三連目『今朝 白バラの声に起こされた』からあなたのことが書かれている。あなたのことを思っていることが切々と伝わってくる。最終連、その結び方に思いがこもっている」「『白バラの声』にずっといっしょにいたいという思いがよくわかる。『弱くあることの自由』の繰り返しが響いてくる」「詩を書く理由が丁寧に書かれている。詩を書くことによって生きている」「いま、バラの季節だが、季節の巡り、蘇り、レジスタンスのパッションがある、と感じた」
 堤から「白バラ」は1943年の反ナチス運動の「白バラ運動」を題材にして書いた、と説明があった。「あなた」は運動のために処刑されたひと。「あなた」が教えてくれたのが「弱くあることの自由」。いつも思っていることなので、詩として出すのはためらった、とも語った。
 ひとはことばなしには考えられない。思うことはできない。そして、思ったからといって(考えたからといって)、それが「ことば」として動いてくれるかどうかは、わからない。この詩には、くりかえし考えたことによって、ことばが自立して歩みだした印象がある。ことばのなかに「歴史」(過去)がある。そういうことを感じさせる。受講生のひとりが「格調」ということばをつかったが、格調とは繰り返し考えることによって鍛えられたことばの強さ、美しさのことだろう。
 この詩では「弱くある」の「ある」のつかい方がとても強烈である。この「ある」は「生きる」である。単なる「状態」ではない。そして、それは「なる」でもある。「強くなる」のではなく「弱くなる」。言い換えれば、常に「弱い立場に身を置く」である。「なる」だから、それは選択的行為である。選択的だからこそ「自由」と結びつく。そして、「なる」は「なす」でもあるからこそ、「希望」につながる。ひとはだれでも「希望」ののために何かを「なす」。
 明確な思想、人格を感じさせる詩だ。

 受講生以外の詩も読んだ。池田清子が選んできた詩。 池田は田中を砂との親和性の強いひと、砂を詩に書いていると紹介したが、読んだのは次の作品。

名づけられないもの  田中佐知

名づけられたものたちで
この 地上は あふれている
樹 空 星 薔薇 道 蝶
それと 同じ 分量 で
いや さらに 多くの
名づけられないものたちの
見えない 息吹きで いき苦しいほどに 満ちている

それは ものの まわりを とりまく
濃密 な 空気 の 流れ
見えない 精 霊 たちの きらめき
あるいは
ことば と ことば の 行間 に ひそむ 奥 ぶかい 暗や
み と 光り

また
樹 を 指し 「き」と 発する
その 実物 と ことば の間に たわむ かすかな ずれ ず
れ が 起 こ るのは
樹みずからの中から あふれる霊気が 「き」という ことばに
収まりきれない からだろうか
樹のもつ無限の力が
ことば を はるか に 超えてしまうのか

ことば を 通りこした 世界を
あえて ことば で えようとすることが 名づけられないものた
ちの 見えない力に 光りを ふりそそぐ ことになるのかもしれ
ない
その光り を

と 名づけても いいだろうか

 「詩というものを詩に書いていいのかなあ、という思いがあるのかなあ。自分自身に対する説明かなあ」「愛しさ、慈愛のこころを感じた。かなしみが、どこかに流れている」「字と字のあいだに空間がある。そこに気持ちを感じる」「ことばとものとの関係を突き詰めている。万葉人のような感覚、言霊を感じた」
 単なる「分かち書き」ではなく、普通はひとまとめのことばを、あえて分断して空白をもちこんでいる。そのとき「意味」はどうなっているのだろうか。「意味」だったものが「音」になったのか、「音」が「意味」になろうとしているか。それは、たぶん決めることができない。そのときの「空白」が闇か光か、それも決めることはできない。どちらであると決めることのできないもの、ただそこにあるものが詩なのかもしれない。

 

 

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こころは存在するか(36)

2024-05-16 14:19:49 | こころは存在するか

 神谷美恵子を読んでいて、ふいに、とても奇妙な気持ちになる。「私は神谷美恵子の文章に愛されている」と感じる。これは神谷美恵子に限ったことではないが、私は、何か好きな人の文章を読んでいると、私はその文章に愛されていると感じる。それは、私はその文章が好きという感覚よりも、何か、不思議な強さ、不思議な深さ、不思議な広がりで迫ってくる。その文章、ことばにつつまれている感じがする。このことばのなかにいる限り、私は安心できる、という感じだ。
 私は、そういう感覚を求めて、たぶん本を読んでいる。愛を知りたいというよりも、愛されているという感覚を思い出したくて読んでいる。
 これは、だから、何と言うか、「私の知らないことを知りたい」という「知識欲」とはかなり違う。「知っている何か」を確かめたいということになる。しかも、その知りたいのは、ことばにする必要のないことなのである。ひとは(私は)ことばをとおして考えるのだが、それは「意味」ではなく、ある「動き」なのだと感じている。
 この「前置き」は、これから書くこととどういう関係があるのか、私自身もわからないが、和辻哲郎の次の文章について書こうと思ったら、突然、思いついてしまったのである。
 で、その和辻の文章というのが。

同一の倫理の異なった表現はあるが、異なった倫理はない。

 私はこのことばから、突然、母や父のことを思い出すのである。前に書いたが、私の母は、私の小学校の担任だった石田先生の「遠眼鏡をもっている。みんなが何をしているか、いつでも見ている。わかっている」ということばを信じて、私に向かって何度もくりかえした。
 このことばのなかにある「倫理」は、どういうものか。ひとは不正なことをすれば、それはかならず発覚する(何か悪いことをすれば、だれかがきっと見ていて、罰せられる)ということかもしれない。ひとは、だれかが見ている、見たいないにかかわらず正しいことをしなければならない、ということかもしれない。
 この「同一の倫理」は、さまざまな異なった表現(ことば)をとる。しかし、その異なった表現(ことば)のなかに、何か「同一の倫理」がある。ひととひととの関係を律する力がある。希望がある。愛がある。
 石田先生が「遠眼鏡をもっている。みんなが何をしているか、いつでも見ている。わかっている」と言ったとき、母がそのことばをくりかえしたとき、私は愛されていたのだと思い出す。そこには希望があったのだと感じる。それは、私の希望か、石田先生の希望か、母の希望か。それは区別してもしようがない。

 「(私は)遠眼鏡をもっている。みんなが何をしているか、いつでも見ている。わかっている」ということばを、あれこれ言い換えてもしようがない。そこから「愛」とか「正義」とか「徳」というような抽象的なことば、さらに「幸福」とか「祈り」という抽象的なことばを引き出してもしようがない。和辻は彼自身の考えを突き詰めていくとき、私たちが日常的につかっている日本語を解体しながら動かしているが、その解体の対象にはならない、かなり「あいまいな広がり」をもったことばである。でも、どんなことばでも、ひとが何らかの「希望」をもって発したことばには必ず共通するものがある。それは、どうしたって「倫理」につながる。ソクラテスもプラトンも、石田先生も「見ている」ものは「一つ」である。表現が違うだけだ。

 神谷美恵子は「人間をみつめて」で、こんなことを書いている。

人間というものは、人間を越えたものが自分と世界を支えている、という根本的な信頼感が無意識のうちにないならば、一日も安心して生きて行けるはずはなく、真のよろこび、真の愛も知りえないもののだ。

 「人間を超えたもの」を「神」と呼ぶひともいる。「宇宙の真理」と呼ぶひともいる。私は「ことば(表現)のなかに動いているもの」と感じている。どんなことばも何かしら「私を越える(超える)」。それが私を愛してくれている。本を読むと、そう感じる。そう感じることができる本を読むのが好きだ。安心できる。
 神谷美恵子も和辻哲郎も、私の存在を知らない。私が彼らのことばを知っているだけだ。しかし、私は、彼らのことばを読むたびに「愛されている」と感じる。

 

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