数々の困難を乗り越えて開催された「ALL TOGETHER」


2011年3月11日、宮城県沖を震源とする大地震が発生、地震は東北だけでなく関東にも影響を及び、大きな被害を与えたことで、東日本大震災と名付けられた。全日本プロレスは東日本大震災発生時は東北を巡業中で、選手やスタッフも震災に遭遇していた。

4月18日、東日本大震災に対し、より大きな支援の輪にするため、団体の垣根を越えて力を合わせ、ビッグ・チャリティーマッチを行なうべきではないかと考えのもと、復興支援チャリティー興行として、新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリングNOAHと日本のプロレス界におけるメジャー3団体による初の合同興行開催を呼びかけ、三団体も賛同、「プロレス夢のオールスター戦」を開催された会場である日本武道館にて共同会見が開かれた。会見には新日本プロレスからは社長として菅林直樹(新日本プロレス社長)、武藤敬司(全日本プロレス社長)、田上明(NOAH社長)が、選手からは棚橋弘至、諏訪魔、杉浦貴が出席し、大会名も「ALL TOGETHER」と名付けられ、8月27日に開催することになった。

当時の三団体は新日本プロレスがユークス体制になっており、全日本プロレスは武藤が社長、NOAHは三沢光晴亡き後は田上が社長となってNOAHを取り仕切っていた。会場となった武道館も本来NOAHで開催される予定だったが、この頃のNOAHは経営が厳しくなりつつあり、かつて超満員となっていた武道館も満員に出来ないなど団体としてのパワーは落ちつつあった。おそらくだが単独での武道館開催は無理と判断したNOAHが「ALL TOGEHER」に会場を提供したのかもしれない。

開催へ向けて順調ではなく、数々の困難があった。その一つはアントニオ猪木の存在だった。開催にあたって、まだプロレス業界の首領と自負する猪木が自分に断りもなくオールスター戦を開催するのは何事だと怒っていたことから、主催者である東京スポーツは開催に向けてアントニオ猪木に登場してもらおうと考え、新日本プロレス、全日本プロレス、NOAHに提案したが、返事はNOだった。理由は各団体とも「プロレス界の将来、未来を見せる大会にしたい」ということだったが、この頃の猪木は新日本プロレスを飛び出してIGFを旗揚げしており、IGFが新日本プロレスのみならず、提携をしていたNOAHに対しても様々な牽制をしてきたことから、新日本プロレスと猪木の関係は平行線で、特に新日本プロレスはユークス体制になってからは脱猪木を掲げて、猪木の影響力から脱しようとしていた。

大会実行委員長である柴田惣一氏は猪木と直接会談して三団体側の意向を伝えると、意向を聞いた猪木は「わかったよ」と返事したことで、柴田氏も猪木が納得してくれたと思っていた。どころが、それは大きな間違いで、猪木は柴田氏の前では聞き分けの良さを装っても、表面上に過ぎず、内心は新日本プロレスどころか、プロレス界から除け者にされたことで腹綿が煮えくりがえるぐらい激怒していた。IGFの事務所に着いた猪木は直ちにスタッフに対し、「ALL TOGEHER」当日に大会を開催することを指示、スタッフも突然なことに戸惑ったが、猪木の指示に従って興行戦争の準備に取り掛かる。

「ALL TOGEHER」前売り券も販売されアリーナS席も完売、大会公式ソングも完成し選手らがレコーディングするなど、開催に向けて無事に進行していたが、武藤と東京スポーツの間で亀裂が生じる事態が起きてしまう。

5月29日、全日本プロレス神戸サンボーホール大会でブードゥーマーダーズの一員だったスーパー・ヘイトが、「急性硬膜下血腫」のため試合後に倒れ救急搬送され緊急手術を事件が起きる。そして後日ブードゥーマーダーズの総帥であるTARUがヘイトと口論となって数発殴ったことが明らかになった。TARUとヘイトがトラブルになった理由は、ヘイトが関係者に人としていけないことをしたことで、TARUが注意していたが、ヘイトは反省しなかったことからトラブルに発展したのだ。

事件発生時は武藤と専務だった内田氏はVM側の隣の控室にいたのだが、隣で何か起きている程度にしか把握していなかった。会見には社長である武藤が出席しなかったことで、この事件でマスコミだけでなく「ALL TOGEHER」東京スポーツまで「会社ぐるみでの隠蔽をした」と書き立てるだけでなく、身内からも和田京平レフェリーが社長自ら謝罪しなかった武藤の対応の仕方を東京スポーツ誌上で批判するなど、内外共に全日本プロレスは内外共に批判の晒されて、団体としても大ダメージを被ってしまう。
マスコミだけでなく身内からのバッシングに怒った武藤は社長を辞任して会長に棚上げされるも、和田京平レフェリーに対して解雇を通告、東京スポーツに対しても「過激な取材で平井選手の親族も、俺も、全日本プロレスもみんな困った。金輪際、俺、東スポ取材拒否だ!」と言い放つだけでなったことで、武藤と東京スポーツとの亀裂が生じ、出場は危ぶまれるようになった。

そして水面下で動いていた猪木も動き出し、東日本大震災チャリティを名目にして「INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜」を「ALL TOGEHER」と同じ日である8月27日、両国国技館で開催することを発表する。猪木の行為は明らかに”猪木自身の威厳を示すため”であることは明らかになっていたことから、ファンから批判を浴びるも、「小さくなったパイを大きくするためだ」と業界活性化を謳って意に介さず、当時はユークス体制とは折り合いが悪く、新日本プロレスとは距離を取って、IGFのエグゼクティブプロデューサーを務めていた蝶野正洋も、立場上「INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜」に参戦せざる得なくなり、ALL TOGEHERを主催した東京スポーツに対しても取材拒否をするなど、三団体に対して対決姿勢を見せる。

主役である武藤との亀裂、猪木から興行戦争を仕掛けられたことで、トラブルの連続だった「ALL TOGEHER」に朗報が入る。6月13日、NOAH大阪府立体育会館第二競技場で開催されていた「三沢光晴メモリアル」で、右肘部管症候群で1年半も欠場していた小橋建太が復帰を発表、7月23日のNOAH大阪府立体育会館で復帰を果たし、「ALL TOGEHER」への参戦が決定する。

全日本プロレスも新社長となっていた内田氏も東スポと揉めるのはまずいと考えて、武藤に「ALL TOGEHER」出場するように説得しており、小橋の出場を聞きつけた武藤も「自分も出なければ、小橋にいいところを持ってかれる」と考えたのか、7・31全日本プロレス名古屋大会の試合後に「間接的にいろんな人に声をかけてもらった。それは一レスラーとしての責任」と一転して出場を決め、武藤と小橋の二人が揃ったことで「ALL TOGETHER」は大いに盛り上がるかと思ったら、とんでもない事態が起きてしまう。

8月9日に「ALL TOGEHER」開催へ向けて会見を開き、IWGPヘビー級王者である棚橋弘至、三冠ヘビー級王者である諏訪魔、GHCヘビー級王者である潮崎豪が揃って会見に応じた際に、諏訪魔が「猪木、ふざけんな」と発言してしまったことで、IGFを大きく激怒させる。特に怒りを露わにしたのはIGFのGMを務めていた宮戸優光と鈴川真一で、鈴川は「猪木会長に失礼だ。言った言葉には責任を持てと言いたいし、プロレスラーならばリングで決着をつけるしかない」とIGFの試合が終わった後に武道館に乗り込むことを発言すれば、宮戸も「大将(猪木)がああ言われて黙ってられるか!」と鈴川と一緒に乗り込むこと示唆するなど、「ALL TOGEHER」側と一触即発の状態となる。だが、この騒動は猪木自身が相手にせず大人の態度を取ったことで、これ以上は炎上しなかったが、今思えば猪木も「諏訪魔、誰なの?」と全日本プロレスにどんな選手がいるのか、武藤以外はわかっていなかったことで大人の態度を取っていたのかもしれない。そして東京スポーツも、さすがに猪木を怒らせてしまったのはまずかったと考えたのか、忖度の意味で「INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜」も後援することになってしまう。

そして8月27日当日、「ALL TOGEHER」が無事開催され、武道館はビッシリ入って17000人と超満員札止めとなった。

メインはIWGP、三冠、GHCヘビー級王者トリオである棚橋&諏訪魔&潮崎が組んで中邑真輔&KENSO&杉浦貴と対戦し、この試合ではフリーのレフェリーとなっていた和田京平が試合を裁いた。三大王者によるトリプルドロップキックも披露するなど見せ場を作り、棚橋がハイフライフローでKENSOから3カウント奪い勝利となった。

しかし主役を奪ったのはセミファイナルの武藤&小橋vs矢野通&飯塚高史で、矢野&飯塚の極悪ファイトに小橋が捕まり、痛めつけられるも、矢野&飯塚相手に死に物狂いで立ち向かう小橋の前に、美味しいをしっかりもっていく武藤でさえも、小橋に主役を譲らざる得なくなる。最後は武藤と小橋のムーンサルトプレスの競演にファンは魅了し、「ALL TOGEHER」で中で大きなインパクトを呼び、この年のプロレス大賞ベストバウトに選ばれた。

他にも9年ぶりに大森隆男と高山善廣が組んでNO FEARが再結成され、また後にLIJとして組むことになる内藤哲也と真田聖也が組むなど数々の見せ場を作った。

全試合が終わった後で出場選手が揃い、大会テーマ曲である「ALL TOGETHER」を大熱唱、三団体による一期一会の場である「ALL TOGETHER」は大団円の中、幕を閉じた。

対する「INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜」も開催されたが、こちらも順風満帆で開催されたわけでなかった。メインでは初代IGF王座決定戦であるジェロム・レ・バンナvsジョシュ・バーネットが行われる予定だったが、ジョシュが9月10日に開催されるStrikeforce興行への出場を優先させてしまったため、ドタキャンする事態が起きていた。これには宮戸もジョシュに対して「二重契約だ!」と怒りを露わにして、IGF追放を宣言したが、IGFフロントによって撤回された。
この事態に「Dynamite!! 〜勇気のチカラ2009〜」でアリスター・オーフレイムの膝蹴りに敗れ、重度の脳震盪で長期欠場していた藤田和之が代役として出場しバンナと対戦、またIGFとトラブルになって離脱していた小川直也も参戦して澤田敦士と対戦するだけでなく、藤波辰爾やミル・マスカラス、アブドーラ・ザ・ブッチャーやタイガー・ジェット・シンなどレジェンドが登場して大いに盛り上げた。当日は被災地から1200人も招き、11600人超満員札止めとされたが、実際のところは1面はステージがセットされており、11600人も動員出来たかどうか言い難かった。

「ALL TOGEHER」「INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜」の興行戦争は終わったが、終わってみて見えたことは、三団体と猪木が相容れない関係になったことが、浮き彫りになってしまったことだった。三団体はこれからもプロレスを貫く姿勢を示したのに対し、猪木はプロレスも格闘技と一緒ということで、プロレスとは真逆の格闘プロレス路線へと貫いていった。これでもう猪木と三団体とは相容れない関係になるのではと思われていた。

2012年に入ると新日本プロレスはユークスからブシロードへ譲渡され、第2回「ALL TOGEHER」も被災地である仙台で開催されたが、猪木はもう三団体とは係わり合いたくないのか、興行戦争を仕掛けることはなかった。だがセミファイナルで武藤と小橋が再び組んで、秋山&大森と対戦すると、昨年と同じように武藤と小橋はムーンサルトプレス競演を見せたが、小橋が左脛骨骨折と右膝内側側副靭帯損傷ならびに右脛骨挫傷の重傷を負ってしまい、再び長期欠場するが、この欠場が小橋が引退を決意するきっかけとなってしまった。

そして12月にはNOAHから秋山準、潮崎豪、鈴木鼓太郎、金丸義信、青木篤志ら5人が退団して、全日本プロレスへ移籍する事態が起き、武藤に代わって全日本プロレスの実権を握った白石伸生が新日本プロレスを批判、数々の問題発言が原因となって、全日本プロレスはマット界から孤立、武藤も全日本プロレスを退団して複数の選手らと共に新団体WRESTLE-1を旗揚げ、また小橋が引退、IGFも内紛で活動を停止するなど、マット界は大きく激動し、三団体が協力する「ALL TOGEHER」は開催されることはなかった。

経営が苦しかったNOAHもリデットエンターテイメントからサイバーエージェントの傘下に入るが、2020年にコロナウイルスによるパンデミックが発生すると、三団体だけなく各団体も緊急事態宣言により興行が自粛に追いやられ、再開しても収容人数制限や声出し厳禁など規制を受けてしまい。2022年10月1日に猪木も死去する。

そして2023年に入り、パンデミックが収束し始め、規制が緩和されると、「混沌からのリスタート」という気持ちを込めて。6月9日の両国国技館で「ALL TOGETHER AGAIN」が開催され、サブタイトルに猪木のキャッチフレーズである「元気があれば何でもできる」が加わったことで、これまで参加することが出来なかった猪木もやっと「ALL TOGETHER」に参加することが出来た。

同年12月に「日本プロレスリング連盟」が設立され、新日本プロレス、全日本プロレス、NOAHだけでなく、DDT、DRAGON GATE、大日本プロレス、ガンバレ☆プロレス、女子プロレスからスターダム、東京女子プロレスが参加し、連盟の発足記念と能登半島地震復興チャリティとして「ALL TOGEHER」が武道館で開催されることになり、全日本プロレスはスケジュールの都合で参加を見合わせたが、DDT、DRAGON GATE、大日本プロレス、スターダムとこれまで参加しなかった団体が参加することになった。ら今回もどんな一期一会によるドラマが生み出されていくのか…

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