次のアメリカ大統領選挙へ民主党から出馬すると表明しているロバート・F・ケネディ・ジュニアは5月7日、WABCラジオでホストを務めるジョン・カツィマティディスのインタビュー中、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺にCIAが関係している可能性に言及した。「合理的疑惑以上」だとしている。これまで少なからぬ研究者やジャーナリストがこの暗殺を調査、同じ結論に達している。

 

 ケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺され、その直後にリー・ハーベイ・オズワルドが逮捕される。ところが暗殺の2日後、ダラス警察の地下でオズワルドは射殺された。その犯人だとされているジャック・ルビー(ジェイコブ・ルベンスタイン)はナイトクラブのオーナーで、シカゴの犯罪組織とつながっていた。犯罪組織の大立者でCIAの仕事をしていたサム・ジアンカーナと緊密な関係な関係にあったとも言われている。

 

 ルビーは1964年4月に死刑が言い渡されたが、上訴裁判所はそれを取り消す。この年の6月にウォーレン委員会のメンバーとダラスで面談したルビーはワシントンDCへ移すように強く求めている。テキサスにいては命が危ないという理由だった。自分は真実を話す用意があるが、テキサスでは無理だというのだ。結局、彼の移送は認められず、1967年1月にパークランド病院でガンのために55歳で死亡した。

 

 ケネディ大統領は1963年11月2日にシカゴを訪れる予定だったが、そこでも暗殺計画があった。パレードの途中で4名のスナイパーが高性能ライフルで大統領を狙うという情報をFBIが「リー」なる情報源から入手、シークレット・サービスへ伝えられた。

 

 また、シカゴ警察のバークレー・モイランド警部補は10月後半、シカゴにあるカフェテリアの経営者からケネディ大統領に関して不穏当な話をする常連客がいることを知らされている。そこで警部補はその男が来るのを待ち、トーマス・アーサー・ベイリーだと確認してからシークレット・サービスに連絡している。(James W. Douglass, “JFK”, Orbis, 2008)

 

 ベイリーの自宅を捜索すると、M1ライフル、カービン銃、2800発の銃弾があった。11月2日午前9時10分(東部時間では10時10分)、ケネディがシカゴのオハラ空港へ到着する予定時刻の30分前にベイリーは逮捕されている。

 

 警察で捜査を担当したのはダニエル・グロスとピーター・シューラだが、グロスはFBIやCIAの訓練を受けた人物で、1969年には警官隊を率い、黒人解放運動を掲げて活動していたブラック・パンサーの指導者であるフレッド・ハンプトンとマーク・クラークを射殺する。またシューラは1970年代にシカゴの警察本部で情報担当の幹部になった。

 

 11月18日にマイアミで暗殺する計画もあったと言われている。そこで自動車によるパレードが中止になった。そして22日に大統領はダラスへ入る。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyhorse, 2013)

 

 当時のダラス市長アール・キャベルの兄のチャールズ・キャベルは1953年4月からCIA副長官を務め、アレン・ダレス長官と同じようにソ連との核戦争を視野に入れた好戦的な作戦を実行しようとしていた。ケネディ大統領は1961年11月にダレス長官を、そして1962年1月にはキャベル副長官を解任している。

 

 1963年11月22日の朝、ケネディ大統領はフォート・ワースのカーズウェル空軍基地からダラスのラブ・フィールドへ移動、そこでパレード用のリンカーン・コンバーティブルに乗り込む。

 

 そのリムジンの約400メートル前方を走るパイロット・カーを運転していたのはダラス警察副本部長のジョージ・ランプキン。この人物は予備役の第488情報分遣隊で副隊長を務めていたが、その分遣隊で隊長を務めていたジャック・クライトンはダラスの石油業者で、ジョージ・H・W・ブッシュと親しく、第2次世界大戦でCIAの前身であるOSSに所属していた。

 

 大統領が乗ったリムジンは防弾仕様でなく、屋根はシークレット・サービスのウィンストン・ローソンの指示で取り外されている。またリムジンのリア・バンパーの左右には人の立てるステップがあり、手摺りもついているが、パレードのときには誰も乗っていない。大統領の指示だったという話もあるが、エージェントだったジェラルド・ベーンは大統領がそうした発言をするのを聞いていないと証言している。元エージェントのロバート・リリーによると、大統領はシークレット・サービスに協力的で警備の方法に口出しすることはなかった。

 

 パレードの途中、12時半頃にケネディ大統領は暗殺された。後ろの教科書ビルから撃たれたことになっているが、映像を見ても証言を調べても、致命傷になったであろう銃撃は前方からのものだった可能性がきわめて高い。銃撃が始まると、大統領を乗せたリムジンの後ろを走る自動車にいた特別エージェントのエモリー・ロバーツは部下のエージェントに対し、銃撃だと確認されるまで動くなと命令している。

 

 しかし、クリント・ヒルは命令を無視してリムジンに飛び乗る。彼によると、銃撃の後に喉を押さえるケネディ大統領を見てのことだ。まだステップに足がかかる前、血、脳の一部、頭骨の破片が自分に向かって飛んできて、顔、衣類、髪の毛についたとしている。

 

 ステップにヒルの足がかかった時、大統領夫人のジャクリーンもボンネットの上に乗り、大統領の頭部の一部を手に触れようとしていた。その時、大統領の頭部の中が見えたという。リムジンの前方から銃撃されたことは決定的だ。(Clint Hill with Lisa McCubin, “Mrs. Kennedy and Me”, Gallery Books, 2012)

 

 ケネディ大統領の死亡はダラスのパークランド記念病院で確認されているが、後にルビーもこの病院で死亡する。大統領の死体を見た病院のスタッフ21名は前から撃たれていたと証言、確認に立ち会ったふたりの医師、マルコム・ペリーとケンプ・クラークは大統領の喉仏直下に入射口があると記者会見で語っている。前から撃たれたということだ。

 

 そうした証言をしたペリーにベセズダ海軍病院から電話が執拗にかかり、記者会見での発言を撤回するように求められている。これは同病院で手術や回復のための病室を統括していた看護師、オードリー・ベルの証言。ペリー本人から23日に聞いたというが、数カ月後にそのペリーは記者会見での発言を取り消し、喉の傷は出射口だとする。ウォーレン委員会でもそのように証言した。(Peter Janney, “Mary’s Mosaic,” Skyborse, 2013)

 

 大統領の死体は法律を無視してパークランド記念病院から強引に運び出され、検死解剖はワシントンDCのベセズダ海軍病院で行われた。担当した軍医のジェームズ・ヒュームスは検死に不慣れだったとも言われている。

 

 狙撃の訓練を受けたわけでもないオズワルドがひとりでケネディ大統領を暗殺したとする公式説に疑問を持った地方検事がいた。ニューオリンズのジム・ギャリソンだ。1966年後半から捜査を始め、67年3月にクレイ・ショーを逮捕する。オズワルドがソ連へ「亡命」した時に名前が出てきた人物で、サントロ・モンディアール・コメルシアールやパーミンデックスの理事でもあった。イタリアの王族や貴族もCIAの秘密工作で名前が出てくるが、ここではそうした話を割愛する。

 

 パーミンデックスはCIAやイギリスのMI6と関係が深いと言われている会社で、アルジェリアの独立に反対する軍人グループへ資金を供給していたとイタリアでは報道されている。ショーを逮捕したギャリソンはアメリカの有力メディアから批判されるが、それだけ彼は核心に迫っていたということだろう。

 

 その軍人グループとは1961年に創設された反ド・ゴール派の秘密組織OAS(秘密軍事機構)。イタリア政府もサントロとパーミンデックスを危険な存在だと認識、1962年に両社は国外へ追放され、ヨハネスブルクへ本部を移している。(Jim Garrison, “On The Trail Of The Assassins”, Sheridan Square Press, 1988)

 

 シャルル・ド・ゴールは大戦中、レジスタンスに参加している。アメリカやイギリスの私的権力はこのゲリラ戦部隊を敵視、対抗するために組織したのがジェドバラ。この人脈が大戦後、CIAの秘密工作部門やNATOの秘密部隊ネットワークを築いた。ド・ゴールが命を狙われた一因は第2次世界大戦中にナチスと戦ったことにあると考える人は少なくない。
 

 パーミンデックスが創設されたのはスイスで、カナダにも施設があった。設立当時の1958年における社長兼会長はルイス・モーティマー・ブルームフィールドだが、この人物は1938年にイギリスの破壊工作機関SOE(特殊作戦執行部)へ入っている。

 

 第2次世界大戦中、OSSとの連絡機関としてイギリスはBSC(英国安全保障局)を設置するが、その責任者だったウィリアム・ステファンソンはケネディ大統領が暗殺された当時、ブルームフィールドを動かす立場にいた。(EIR, “Dope, Inc.”, Progressive Press, 2010)

 

 ケネディ大統領が暗殺された後、副大統領だったリンドン・ジョンソンが大統領に就任、11月29日に「ケネディ大統領暗殺に関する大統領委員会」を設置、アール・ウォーレン最高裁長官を委員長に据える。委員長の名前から「ウォーレン委員会」と呼ばれることが多い。

 

 委員会のメンバーはウォーレンのほかにリチャード・ラッセル上院議員(当時、以下同じ)、ジョン・クーバー上院議員、ヘイル・ボッグス下院議員、FBIと関係が深いジェラルド・フォード下院議員、アレン・ダレス元CIA長官、ドイツの高等弁務官としてナチスの大物を匿ったジョン・マックロイ元世界銀行総裁がいた。そして主席法律顧問はFBIとCIA両方とつながっていたリー・ランキン。この中で委員会の専従はダレスだけだった。

 

 ウォーレン委員会が暗殺に関する報告書を出した3週間後の1964年10月12日、ケネディ大統領と親しかったマリー・ピンチョット・メイヤーが散歩中に射殺された。銃弾の1発目は後頭部、2発目は心臓へ至近距離から撃ち込まれている。プロの仕業だ。容疑者として逮捕されたレイモンド・クランプは1965年に無罪が言い渡されているが、捜査は杜撰だった。

 

 ケネディ大統領が暗殺された直後にマリーはハーバード大学で心理学の講師をしていた友人のティモシー・リアリーに電話し、泣きじゃくりながら「彼らは彼をもはやコントロールできなくなっていた。彼はあまりにも早く変貌を遂げていた。・・・彼らは全てを隠してしまった。」と語ったという。(Timothy F. Leary, Flashbacks, Tarcher, 1983)

 

 マリーは大統領と親しかったことから何かを聞いていた可能性があるが、それだけではない。彼女が結婚したコード・メイヤーは大戦後、CIAで秘密工作部門の幹部を務めている。ふたりは1958年に離婚しているものの、彼女はCIAの内部情報を知りうる立場にあった。

 

 ジョン・F・ケネディ大統領、弟のロバート・ケネディ、ケネディ兄弟と親しかったマーチン・ルーサー・キング牧師は短い期間の間に暗殺された。ケネディ大統領の息子であるジョン・F・ケネディ・ジュニアは大統領選挙を翌年に控えた1999年7月16日に「飛行機事故」で死亡している。当時、彼の出馬を望む声は小さくなかった。

 

 次の大統領選挙への出馬を表明しているロバート・F・ケネディ・ジュニアはロバート・ケネディの息子であり、ジョン・F・ケネディの甥であり、ジョン・F・ケネディ・ジュニアの従兄弟にあたる。

 

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202305110000/